2018年12月17日

三十七  浦上四番崩れー捕縛

しかし長崎奉行は、浦上の農民たちが囚人たちを奪い返しに来るかもしれないと思い、2日後には小島に新牢を作り、そこに移しました。そこから仙右エ門、与五郎、寅五郎、又市などは、取り調べのために、たびたび西役所に引き出されました。一方、キリシタンであるという信仰の問題だけで捕縛投獄されたことに在留外国人は衝撃を覚え、各国の領事は奉行に抗議しました。更に問題は幕府と各国外交団に移され、毎日のように議論されました。しかしキリシタン邪教観は強く、なかなか解決しませんでした。
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2018年12月16日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

捕縛
 1867年7月15日の早朝3時ごろ、大雨をついて捕手たちは浦上の地に踏み込み68人が捕らえられました。 これが「浦上四番崩れ」の始まりです。彼らは桜町牢(ろう)に入れられました。この桜町牢は、もともと教会のあったところですが、1614年の迫害の時に壊され、その後に牢獄が作られて、迫害時代に多くの神父や信者たちが、苦しみをしのぎ、殉教へ旅立っていったところです。
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2018年12月14日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

 代わった明治新政府は、神道を中心に天皇政治を目指したため、キリシタンに対しては迫害の手を緩めるどころか、ますます激しくなりました。そのため、キリシタンへの迫害と弾圧は、外交上の問題となりました。 明治6年、すなわち1873年になって、やっとこの問題は解決し、キリストを信じることが認められたのです。しかしそのためには「浦上四番崩れ」と言われている、明治政府によるキリシタン弾圧の中での厳しい迫害と殉教を通過しなければならなかったのです。
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三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

 「ワタシノムネ アナタトオナジ」この言葉をもって復活したキリシタンたちは、うれしくてうれしくてたまりません。それまで隠れ続け、待ち続けてきたキリシタンたちは、毎日のように天主堂に通い、熱心に祈り、み言葉を学びました。けれどもまだ、日本はキリスト教を禁止していました。その結果、浦上のキリシタンたちは、ついに捕らえられ、牢に入れられてしまいます。まず最初に、指導者の68人が捕まりました。そして、この問題を解決できぬまま、江戸幕府は倒れてしまうのです。
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2018年12月13日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

 これから「浦上四番崩れ」について書いていきたいと思いますが、その前に今までに書いてきたことを、簡単にまとめておきます。
激しい迫害の中で潜伏したキリシタンたちは、バスチャンの残した予告預言を信じて7代250年の間、罪の告解を聞いてくれる神父が来るのを待ち続けていました。そして、預言通りに、7代250年たった時に、神父がついにやってきたのです。
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2018年12月12日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

浦上四番崩れ

 しかし奉行は「これは純粋な内政問題なので外国の指図を受けるものではない。ことに200年来も守られてきたキリシタン禁教命令の法令を止めることは、幕府だけがすることで、地方の問題ではないから、どうか江戸幕府へ談判してほしい」とこたえました。その結果、この問題は江戸幕府と上記各国等による外交団との間に移され、外交団は毎日のように、この問題をもって幕府に迫りました。しかし徳川250年間の間に培われたキリシタン邪教観は根深くなかなか解決はしなかったのです。そして、キリシタン事件を解決できないまま、幕府は瓦解してしまうのです。
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2018年12月10日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

浦上四番崩れ

 その数日後に来埼したアメリカ公使ワルケンブルグも奉行に抗議し、牢内にいる信徒たちを見舞いました。大国アメリカの全権公使が、農民信徒たちを親切に慰問したことは、長崎奉行をずいぶん驚かせたようです。領事たちは「日本が宗教を許さないということは、野蛮国であるという証拠であり、このたびの事件が本国へ報告させられたならば、日本の立場は非常に悪くなるでしょう。対等の条約が結べなくなるかもしれません。ですから早急に信者を放免し、更に進んでキリシタン禁教命令の高札を取りのける方が。りのける国家のために良いでしょう」と注意しました。
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2018年12月08日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

浦上四番崩れ

 1867年7月15日の早朝3時ごろ、大雨をついて安藤弥之助の指揮する捕手たちが、数隊に分かれて浦上の秘密聖堂や主だった信者の家を襲い、踏み込みました。秘密聖堂は散々荒らされ、68人が捕らえられて桜町牢に入れられました。これが「浦上四番崩れ」と言われている大迫害の発端です。こうして浦上で、再び迫害が始まったのです。キリシタンであるという信仰の理由だけで、このような捕縛投獄が行われたことは、居留外国人たちに大きな衝動を与えました。そしてこの事件は、その日のうちに外交問題となりました。 その日(7月15日)の午前11時、プロシア領事が、翌16日にはフランス領事レックスが、その翌日17日は、ポルトガル領事ロレイロが奉行所を訪ね、抗議しました。
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2018年12月07日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

庄屋があわてたのも無理はありません。「それでは聖徳寺との縁を切りたいものの名簿を出せ」と言ったところ、本原郷400戸、家の郷100戸あまり、中野郷100というように、元来の仏教徒と裕福ではあるが信仰心の薄かったキリシタン30戸だけを除いて、村人のほとんど全部が名を連ねたのです。これで、ついに浦上村の人々がキリシタンであることが、明るみにでたのです。そこで長崎奉行所では、たくさんの間者を浦上に潜入させ名簿を作り、主だった指導者たちのことや4か所の秘密聖堂の坪数、間取りまで詳しく調べさせていました。
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2018年12月03日

キリシタンの復活3−自葬問題

庄屋は「今の坊さんたちが嫌いなら、お坊さんを代えてやる」と言いましたが「どなたであろうと坊さんは要らないのです。お寺とは縁を切りたいのです」と答えました。これは大変なことでした。なぜなら死人が出た時、坊さんを呼んでお経を上げるというのは、祖法(徳川家康、秀忠、家光三代の間で決まった背くことのできない大事なおきて)だったのに、それを「嫌です」と言ったのですから。

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2018年12月02日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

翌6日、平の宿の久蔵が死んだときには、聖徳寺にも知らせずに自葬してしまいました。それを知った聖徳寺が、庄屋の訴え出て問題になってしまいますその問題になっている真っ最中4月14日、平の三八の母たかがしにました。今度は庄屋が気を利かせて坊さんを連れてきましたが、家の者が承知しないで、お経をあげるのを断り、自葬しました。
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2018年11月29日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

自葬問題

当時は、死人があると必ず檀那寺(だんな)の坊さんを招いて読経を頼み、坊さんの立会いの下で納棺することになっていました。しかし神父から指導を受けるようになると、このような表面仏教という態度を清算しなければいけなくなったのです。1867年4月5日 本原郷の茂吉が死んだとき、これまで通り聖徳寺の坊さんを呼んできましたが、使いの者が途中で、わざとつまらぬことを言って坊さんを怒らせたので、坊さんは帰ってしまいました。それで幸いと、茂吉の家では坊さんなしで時葬してしまったのです。
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2018年11月28日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

プチジャン神父は、ちじれ髪やひげをそり落とし、シュロの毛を黒く染めて作ったかつらをかぶります。そして日本の農民の着物を着て、わらじをはいて角帯を締め、手ぬぐいをほおかぶりして日本人に化けるのです。そうやって、夜中に山の中の小道を案内されたり、小舟に乗せられたりして、村や島々を回りました。一方では、大浦天主堂の屋根裏部屋に、村々の代表や青年たちを集めて、いろいろと教えました。そして伝道師として村へ帰しました。こうして彼らの信仰は、日ごとに強められ、燃やされていったのです。
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2018年11月27日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

役人の目を盗んで

それではでも信者たちは、役人の目を盗んでは、夜となく昼となく、天主堂に入りこんでオラショを唱え、神父たちと話をするのでした。それが役人の目に余り程く映ると、新しい迫害が起こるかもしれません。 そこで、プチジャン神父は信者たちに、天主堂に来るのを遠慮するように言い、自分の方から出て行って信者の代表と会うことにしました。また信者の隠れている村々や島々へも出かけることにしたのです。
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2018年11月26日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

7代250年間待ち続けていた神父が、ついにやってきたのです。 イサベリナゆりたちがフランス寺であった異人がその神父であるということは、その日のうちに浦上中に知れ渡り、浦上の全村民が知るところとなりました。すると、その翌日から、浦上の信者たちは続々と、早朝から天主堂へ来るようになりました。しかし、日本はまだ、厳重な禁教下にあったので、役人たちの警戒もまた、急に厳しくなりました。
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2018年11月24日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

彼らが、さらに神父に質問をしようとすると、ほかの日本人が、天主堂に入ってきましたその途端、神父の周りにいた彼らは、たちまちぱっと八方に散り散りになりましたがすぐまた帰って来て「今の人たちも村のの者で私たちと同じ心でございます。心配いりません」と申しました。
こうして、浦上のキリシタンが、発見されたのです。そして、それに引き続いて、長崎県だけでも数万人ものキリシタンが潜伏していることが、明らかになりました。 1614年1月大禁教令から251年にわたる、厳しい迫害と殉教の期間を潜伏し続けたキリシタンは、ついに復活したのです。 これは他国に類を見ない出来事として、世界宗教史上でも注目されています。 
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2018年11月23日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見 三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

 確かに彼らは、イエス・キリストを信じて、神父の来るのを250年間待ち続けていたのです。彼らの中の一人が、さらに申しました。「御主(ゼスス)さまは・・・33歳の時、私たちの魂の救いの為に十字架にかかって、お果てになりました。只今、私達は『悲しみ節』にいます。あなた様も『悲しみ節』を守りますか」「そうです。私たちも守ります。今日は『悲しみ節』の17日目です。神父は「悲しみ節」という言葉をもって「四旬節」(復活前の40日)を言いたいのだと悟ったのです。悲しみ節の期間、迫害下の潜伏の中でキリシタンたちは、断食と祈りを守り続けて来たのです。
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2018年11月21日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

 驚きながら立ち上がろうとする神父に、その婦人は畳みかけるように聞きました。「サンタマリアのご像はどこ」神父が、聖母像の前に案内すると、みんなが集まって来て「本当にサンタ・マリアさまだよ。御子ゼズスさまを抱いていらしゃる」というのでした。 プロテスタントの牧師である私は、彼らがマリア像を探していたことに、つまずきを覚えていました。ところが先日、ある神父の方が、こう言われるのを聞きました。「みな『サンタ・マリアのご像はどこ』という言葉ばかり強調する。でも大切なことは、彼らはこの像の前に来て、御子ゼズスさまを探していたことです。彼らはイエスさまを探していたことです。そのことを忘れてはならない」
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2018年11月19日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見

 プチジャン神父が、祭壇の前でひざまずいて祈っていると、天主堂の中にも窓の外にも、役人らしい人影がいないのを確かめてから、彼らの中の3人の婦人が、プチジャン神父に近づいてきました。そしてその中の一人のイサベリナゆりが、自分の胸に手を当てて、神父の耳元にささやいたのです。 「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ(ここにおります私たちは皆、あなた様と同じ心でございます。)」神父は驚いて聞き返しました。「本当ですか。どこのお方です。あなたがたは」「私たちは皆、浦上の者でございます。浦上ではほとんど皆、私たちと同じ心を持っております」この言葉を耳にした時のプチジャン神父の驚きと喜びは、今の私たちには、到底察し得ないでしょう。この時、250年にわたって地下に潜伏していた日本のキリシタンたちが、再び復活したのです。
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2018年11月18日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見

 1865年3月17日、金曜日の昼下がり、フランス寺の前に十数名の男女の農民がやって来ました。フランス寺の扉は鍵が掛けられてしまっていました。彼らにはフランス式の掛け金の開け方が分からないので、ガチャガチャとさせていると、プチジャン神父が急いでやってきて開けてくれたのです。神父が聖所の方に進んで行くと、この十数名の参観人の一行は物珍しげに、きょろきょろしながら後ろからついて堂内に入って行きました。
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2018年11月17日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

 けれども、神父はあきらめませんでした。きっと、長崎にはまだキリシタンたちが残っているに違いないと信じて、彼らと会える日を待ち望んでいたのです。それで、プチジャン神父は、長崎ばかりでなく、その郊外辺りにも、たびたび出かけて、キリシタンらしき家はないかと訪ねて歩いていたのです。ある時には、子供にお菓子を与えて、食べるときに十字を切りはしないかと気を付けて見てみたり、またある時は、わざと馬から落ちて、もしもキリシタンなら思わず助けてくれはしないかと試してみたり、いろいろとやってみましたが、みんなあてが外れて、信者らしい人とは出会えませんでした。
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2018年11月16日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

1865年2月19日、フランス寺と呼ばれていた大浦天主堂の献堂が行われました。 プチジャン神父は、ひそかに期待していたことがありました。それは、きっと昔からのキリシタンが、長崎には残っていて、天主堂ができれば、すぐにでも名乗り出てくるだろうと、楽しみにしていたのです。
ところが、献堂式の日には、日本人は誰も姿を見せませんでした。フランス領事から長崎奉行に案内状は出されていましたが、下役が、代理として来ただけでした。それで、彼らは大いにがっかりしてしまいました。
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2018年11月15日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂  

大浦天主堂ーフランス寺

フューレ神父は,その翌年に帰国しますが、代わりに赴任したプチジャン神父は、日本人を使って、日本の材料で工事を進め、ついに1864年12月29日に落成し、翌1865年2月19日に献堂します。この天主堂は、北に向かって、二十六聖人が殉教した西坂に向かって真向かいに建てられているので26聖人 日本二十六聖人教会、あるいは二十六聖人殉教者堂と名付けられました。しかし町の人々は、当時フランス寺と呼んでいました。今は地名にちなんで大浦天主堂と一般に言われています。
この大浦天主堂で、浦上信徒の発見がなされたのです。
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2018年11月14日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

これによって、今まで禁止されていたキリスト教信仰が、外国人居留地に限って公認されたのです。そしてこの結果、長崎にも天主堂が建てられることになりました。
大浦天主堂ーフランス寺
1863年、フランス人のフューレ神父は、大浦の南山手に天主堂を建てるための工事に着工します。
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