2017年05月18日

浦上信徒発見8

神父が聖所の方に進んで行くと、
この十数名の参観人の一行は
物珍しげに、
きょろきょろしながら
後ろからついて来て
堂内に入って行きました。

プチジャン神父が、
祭壇の前でひざまずいて
祈っていると、
天主堂の中にも
まどの外にも、
役人らしい人影がいないのを
確かめてから、

彼らの中の3人の婦人が、
プチジャン神父に
近づいて来ました。




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2017年05月17日

浦上信徒発見7

1865年3月17日、
金曜日の昼下がり、
フランス寺の前に
十数名の男女の農民が
やって来ました。

フランス寺の扉は
鍵がかけられて
閉まっていました。

彼らには、
フランス式の掛け金の
開け方がわからないので、
ガチャガチャとさせていると、
プチジャン神父が
急いでやって来て
開けてくれたのです。
posted by 日本教会史 at 22:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月15日

浦上信徒発見6

ところが実はその時、
長崎の周りの村には、
何万というキリシタンたちが、
素知らぬ顔をしながら
信仰を告白する時を、
今か今かと
待っていたのです。
posted by 日本教会史 at 12:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月14日

浦上信徒発見5

それでも、
プチジャン神父たちは、
多くの殉教者を出した長崎には、
きっと信者の種が隠されているに違いないと
信じていました。

けれども、
どんなに探しても、
それらしき者が一人として
見つからないので、
よほど厳しい弾圧と迫害を受けたのだろうと、
とても嘆いていたのです。
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2017年05月13日

浦上信徒発見4

ある時は、
子どもにお菓子を与えて、
食べる時に十字を切りはしないと
気を付け見てみたり、

またある時は、
わざと馬から落ちて、
もしもキリシタンなら
思わず助けてくれはしないかと
試してみたり、
とにかく、
いろいろやってみましたが、
みんなあてが外れて、
信者らしい人とは
出会えませんでした。
posted by 日本教会史 at 08:40| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月12日

浦上信徒発見3

けれども、
神父はあきらめませんでした。

きっと、
長崎にはまだキリシタンたちが
残っているに違いないと信じて、
彼らと会える日を
待ち望んでいたのです。

それで、
プチジャン神父は、
長崎ばかりではなく、
その郊外辺りも、
度々出かけて、
キリシタンらしい人はいないか、
キリシタンらしき家はないかと
訪ねて歩いたのです。
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2017年05月11日

浦上信徒発見2

ところが、
献堂式の日には、
日本人は誰も姿を見せませんでした。
フランス領事から
長崎奉行に
案内状は出されていましたが、
下役が代理として来ただけでした。

それで、
彼らは大いにがっかりしてしまいました。
posted by 日本教会史 at 06:48| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月10日

浦上信徒発見

1865年2月19日、
フランス寺と呼ばれていた大浦天主堂の
献堂式が行われました。
プチジャン神父は、
ひそかに期待していたことがありました。

それは、きっと昔からのキリシタンが
長崎には残っていて、
天主堂ができれば、
すぐにでも
名乗り出てくるだろうと
楽しみにしていたのです。
posted by 日本教会史 at 22:18| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月08日

大浦天主堂 フランス寺

この天主堂は、
北に向かって、
二十六聖人が殉教した西坂に向かって
真向かいに建てられているので、
日本二十六聖人教会、
あるいは日本二十六聖人殉教者聖堂と名づけられました。
しかし町の人々は、
当時フランス寺と呼んでいました。

今は地名にちなんで大浦天主堂と一般には言われています。
この大浦天主堂で、
浦上信徒の発見がなされたのです。
posted by 日本教会史 at 18:31| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月07日

大浦天主堂  フランス寺

1863年、フランス人のふゅーれ神父は、
大浦の南山手に天主堂を建てるための工事に着工します。

フューレ神父は、
その翌年帰国しますが、
代わりに赴任したプチジャン神父は、
日本人を使って、
日本の材料で工事を進め、
ついに1864年12月29日に
落成し、
翌1865年2月19日に献堂します。
posted by 日本教会史 at 19:07| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月05日

鎖国破れる

1853年にペリーが浦賀に来て
鎖国を続けていた日本は、
外からの力によって
目を覚まされることになります。

そして5年後の1858年(安政5年)
日本は、アメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスと
修好条約を結び、
長崎港なその5港が開港されます。

その結果、
外国人居留地ができるようになりました。

ここに、
ついに200余年にわたって続いていた
日本の4鎖国は破れたのです。

posted by 日本教会史 at 08:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月04日

キリシタンの復活A

実際に、1867年に始まった「浦上四番崩れ」と
それに続いて起こった大村領木場の三番崩れ、
悲惨極まる五島崩れ、
外海や、伊王島、陰の尾島、
大山、善長次などの離島へき地にまで及んだ残酷な迫害の中で、
殉教する者たちも出ました。

キリストへの信仰の自由を
勝ち取るために、
どうしても、
このような厳しい季節を
忍びながら
通過しなければならなかったのです。
posted by 日本教会史 at 23:28| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年05月01日

キリシタンの復活A

しかし、彼らが信じて待ち続けた、
大声でキリシタンの歌を歌って歩ける喜びを得るためには、
もうしばらくの時と、
迫害と殉教という困難と試練が必要だったのです。

この国が鎖国を解き、
250年以上続けたキリシタン弾圧と迫害をやめて、
キリストを信じる信仰の自由を得るためには、
再び殉教の血が、
流されなければなりませんでした。
posted by 日本教会史 at 15:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月30日

キリシタンの復活 

7代250年間、バスチャンが残した予告預言を握って、
コンヘソーロがやってくることを信じて待ち続けた
浦上のキリシタンたち。

その予告通りに、
7代に当たる幕末に黒船がやってきて、
大浦天主堂が建ち、
神父が来て、
キリシタンの復活が起こるのです。

posted by 日本教会史 at 18:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月25日

外海の形右衛門E

このように
「7代たったらコンヘソーロがやってくる」
という預言の言葉は、
潜伏しているキリシタンたちにとって、
とても大きな希望となっていたのです。

そして、
その予告預言の通りに、
7代目に当たる幕末に黒船がやって来、
キリシタンの復活が起こるのです。
posted by 日本教会史 at 13:32| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

外海の形右衛門D

また長崎港の近くに善長谷というカトリックの信者の群れがありました。

ここはもともは禅定谷といいましたが、
左八という水方が引率して
家族とふたりの独身者が移住してきたのです。

左八は臨終の時、
各戸の家頭を枕元に集め、
諭して言いました。

「やがて黒船に乗ってくる人と一つになれ」と。
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posted by 日本教会史 at 13:26| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月23日

外海の形右衛門C

ところがある日、
大きな黒船がやってきたと言って
人々が騒いでいるのです。

彼は小高い丘に登って、
その所を打ち眺めました。
「これじゃ。
これがバスチャンさまの預言の黒船じゃ。

じゃが、わしはコンヘソーロに会うて、
コンヒサンを申すまでは生きてはおらぬ。」

そう言って、
涙をこぼしたのです。
posted by 日本教会史 at 00:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

外海の形右衛門B

牛肉も食べられる世にはなるが、
それは金持ちや上っ方ばかりで、
我々貧乏人の口には乗るまい。

その日がちかずいたというのに、
このわしは何と不幸なんじゃ。

コンヘソーロに会うて、
コンヒサンを申すこともできないで死んでしまう。

しかし、
おまえら若い者は、
その時代を見ることができるのじゃ」
posted by 日本教会史 at 00:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年04月02日

外海の形右衛門A

彼は涙を流しながらこう言っていたのです。

「黒船の渡来も遠いことではないぞ、
コンヘソーロがやってきて、
コンヒサンを聞き、
罪科の赦しを頂ける日は近づいた、

オラショも、教えも大声でできるようになるぞ。


posted by 日本教会史 at 19:45| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

外海の形右衛門

バスチャンから7代たった時に、
長崎の外海というところに形右衛門という
一人の老人がいました。

彼は信仰あつい人で、
コンヘソーロ(神父)が来るのを、
ずっと待っていました。

posted by 日本教会史 at 19:21| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

バスチャンの4つの予告預言B

キリシタンたちは、
この4つの預言の言葉を
心に大切に抱きながら、
告解を聞いてくれる神父がやってきて、

大声でオラショ(お祈り)することのできる日を、
7代250年間、
信じて待ち続けたのです。

そして、
預言が成就する日が、
やってきたのです。
posted by 日本教会史 at 19:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月31日

バスチャンの4つの予告預言A

バスチャンが残した4つの予告預言とは
次のようなものでした。

1.お前たちを7代まではわが子とみなすが、
  それから後はアニマ(霊魂)の助かりが困難になる。

2.コンヘソーロ(告解を聞く神父)が、大きな黒船に乗ってやってくる。
  毎週でもコンヒサン(告解)ができるようになる。

3.どこででも、大声でキリシタンの歌を歌って歩ける時代が来る。

4.道でゼンチョp(ポルトガル語で教外者)に出会うと、
 先方が道を譲るようになる。
posted by 日本教会史 at 08:57| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月30日

バスチャンの4つの予告預言

信徒発見がされるまでの7代250年間、
信仰を守り通した浦上のキリシタンたち。

彼らが信仰を継承し、
守り続けることができたのは、
帳方・水方・聞役というしっかりとした地下組織と
日本人伝道士バスチャンが残した
「バスチャンの日繰り」があったからです。

そして実は
もうひとつとても大切なことがあります。
それは、バスチャンが残した
4つの予告預言でした。
posted by 日本教会史 at 13:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年03月29日

断食の祈りを通してB

確かに、
主は祈る人を通して働いてくださり、
祈りを通して、
人々を祝福してくださるのです。

  実はバスチャンが残したのは
 「日繰り」だけではありませんでした。

 彼も殉教者でしたが、
 処刑される前に、
 4つのことを預言し予告しました。

 そして、人々は
 この預言を大切に伝承していったのです。

posted by 日本教会史 at 13:53| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする