2019年01月29日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

空腹の中で
 さらに津和野には,先に流されてきた28人の家族の125人が、2月の初めに着きました.もうすでに役人たちは、説教だけでは転宗できないと分かっていたので空腹の責め苦に掛けました。1日に米1合3勺、味噌を親指大きさほど、塩一つまみ、水一杯、ちり紙1枚ずつを与えました。母親は自分の食べる物も子供に与えるので、見る見るやせていきます。そしてその弱り果てた体を裁判に引き出して、キリシタンをやめろと手を変え品を変え、繰り返し責め立てます。
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2019年01月28日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

氷責め
 それよりだんだん体は 冷え凍り、震えが来、歯はがちがち鳴り出しました。その時、仙右衛門は勘三郎に言いました。「勘三郎、覚悟はいいか。私は目が見えぬ。世界がくるくる回る。どおぞ私に気を付けて下されば」もはや息が切れようとする時に、役人が「早く上げろ」といいつけました。それでも警護の役人が「早く上がれ」と二人に言いましたが「今、宝の山に登りておるからには、この池から上がられん」と勘三郎が答えたので、役人は5メートルばかりの竹の先に鉤(かぎ)を付け、鉤の先に髪の毛を巻き付け、力任せに引き寄せて、氷の中よりふたりをひきあげました。
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2019年01月27日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

氷責め
柴束を2つをたき付けとして枯れ木を立てて燃やし、二人の体を6人で抱えてその火にあぶり、ぬくめ入れ、気つけを飲ませて正気つかせました。「その時の苦しさは何とも申されませぬ」と勘三郎は、手記に書いています。仙右衛門は、は体中がうずき、次に悪寒と旋律がきて
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四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

すると氷は、みしみしと破れ、ふたりは氷の下を泳ぎ回りましたが、深くて背が届かず、やっとの思い出池の真ん中に浅いところを見つけて足先で立ち、やぶれた氷の上に頭を出して苦しい息をしました。その時、役人が「仙右衛門、勘三郎、天主が見えるか。さあ、どうじゃ」とあざけりました。そして、水を何度もくんで顔に投げつけ、息ができないようにしました。
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2019年01月26日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

氷責め

 冬のある日、仙右衛門と勘三郎は、朝から呼び出されました。彼らはどんなに説教されても信仰を捨てません。それで氷責めに掛けられました。 その時津和野では、雪がひと月以上振込続き、60センチ以上も積もっていました。池にも厚い氷が張っていました。その池の縁に、4斗桶をふたつ並べ、柄長のひしゃくで2人の裁判の役人や警護の役人5,6人が彼らを引き出し「外国の宗教を信じる者は、日本で出来たものは身に着けてはならぬ」と言って、ちょんまげの頭に巻いてある紙のこよりも切りのけ、着物もふんどしも取りのけ、真っ裸にして氷の張った池の上にふたりをつきおとしました。
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2019年01月25日

四十  浦上四番崩れ4−一村総流罪  

津和野での拷問
 それでも転ばぬ者たちは三尺牢(さんじゃくろう)に入れられました。三尺牢は90センチ立方の箱で、前は6センチおきに打った
格好になっており、天井に食事などを入れる穴が一つあるばかり、他はすべて厚さ4センチの松板で固くできていました。体を曲げてやっと入って
いられる狭さでした。
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2019年01月24日

四十  浦上四番崩れ4−一村総流罪

津和野での拷問
板敷きの上に、みんなで抱き合って寝ましたが、冬の津和野はあまりに寒くて眠れません。とうとう16人は耐え切れずに転宗を申し出ました。転宗した者は別の場所に移され、腹いっぱいになるまで食べ、仕事に出ることも許されました。そこへ、まだ転ばない者たちを3,4人ずつ連れてきて「お前もただお上の言いつけに従って西洋の宗教を捨てれば、いまのこの地獄からあのような極楽に移れるのだ」とゆうわくするのです。
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2019年01月20日

四十  浦上四番崩れ4−一村総流罪

1868年7月11日、まず最初に、仙右衛門や甚三郎などの中心人物から萩に66人、津和野に28人、福山に20人の合計114人が長崎港から送り出されました。なんとこの時、浦上に残された人たちには、家族の者でさえ、彼らがどこの流されたのかは、知らされなかったのです。それが分かったのは、半年後のことでした。
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2019年01月19日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

浦上一村総流配

 しかし、それはあまりにひどすぎると、参与小松帯刀が、三条実美に意見を申し出たので、死刑にしないで全員流配することに決まりました。こうして神道国教主義をとった明治新政府は、キリストへの信仰を捨てない浦上のキリシタンたちを「一村総流罪(いっそんそうるざい)」にすることに決めました。この結果、浦上の信者3394人が金沢や名古屋、それに萩、津和野、鹿児島などの西日本の諸藩に流されるという大変な処分が、行われることになったのです。
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2019年01月18日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

浦上一村総流罪

 5月17日、大阪の本願寺で処分に関する御前会議が開かれ、三条実美、木戸孝允、伊達宗城、井上馨に、長崎から呼び出された大隈重信が加わりました。御前会議では沢の処分案や 重信の意見も参考にされましたが、木戸の意見が用いられ中心人物を長崎で死刑にし、残りの三千余人を名古屋以西の十万石以上の諸藩に流配、大名に生殺与奪の権を与え、七年間は一口半の扶助米を支給しキリシタンの中心浦上を一掃することに定まりました。
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三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

キリスト教邪教観

 「まだキリシタンを信仰しているというが相違ないか」「相違ございません」仙右衛門が答えます。「早速止めろ」「キリシタンを止めたいならとっくの昔にやめています。「皆の者、その通りか」「さようで、さようで」と異口同音に答えました。 信者たちの決心の堅さを見て、沢宣嘉は「中心人物は斬首(ざんしゅ)、その他の者は流罪にする」という浦上信者処分案を井上馨に持たせて京都にやり、政府の決裁をもとめました。
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2019年01月17日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

キリスト教邪教観

 一方、長崎では沢宣嘉は、浦上キリシタンの指導者26人を総督府に呼び出して、キリシタンを捨てよと、厳しく命じ、詰め寄りました。しかし回心戻しをした時、彼らは殉教を覚悟していたので「死刑にされてもかまいません」と言って信仰を改めようとはしません。そこで沢宣嘉は4月29日に180人の戸主を呼び出し、総督府の庭の小石の上に座らせて12人の役人を従えて出てきました。
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2019年01月16日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

キリスト教邪教観

 これをみた欧米の外交団から「われわれ文明人の信じているキリスト教を邪宗というのは我々に対する侮辱である」と政府へ抗議してこられ、政府は困って、一、切支丹邪宗門の儀は、是迄御制禁の通り固く相守るべく候事。一、邪宗門の儀は、固く禁止之事。と書き改めました。
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2019年01月15日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

キリスト邪教観
五榜の掲示第三礼には、次のように書かれていました。一、切支丹邪宗門(きりしたんじゃしゅうもん)の儀は固く御制禁たり。若し不審なる者之有れば、その筋の役所に申出可 ご褒美(ほうび)くださる可事。慶応四年三月 大政官  
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2019年01月14日

三十九 浦上四番崩れ3−回心戻し

キリスト教邪教観

新政府は4月7日に五榜の掲示に掲げ神道国家主義の政治方針を明らかにしました。つまり、神道により民心を一つにまとめようとしたのです。それは当然キリシタン弾圧を決定づけました。


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2019年01月13日

三十九 浦上四番崩れ3ーキリスト教邪観

 年は改まり1868年、明治新政府は沢宣嘉を、九州鎮撫総督兼外国事務総督に任命します。彼は井上聞多(馨)を連れて3月7日に長崎に着任します。
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2018年12月28日

三十九 浦上四番崩れ3ー改心戻し

 ところが白州へ出てみると、案に相違して、「いずれ厳しく吟味いたすので、そのとき呼び出すまで自分の家におれ」と言い渡されて奉行所から追い出されました。というのは幕府が倒れて、天皇政治が始まろうとしており、奉行所はそれどころではなかったのです。
 翌11月9日に、15代将軍慶喜は大政を奉還し、浦上事件を解決できないまま、幕府は倒れました。
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2018年12月27日

三十九 浦上四番崩れ3ー改心戻し

 それで仙右衛門にできたのなら、自分にもできないはずはないと、女性5人を含む38名の者が庄屋の門をたたいて「改心戻し」を申し出たのです。
 改心戻しとは、一度転んで改宗しキリストを捨てたことを取り消して、元のキリストへの信仰に戻ることです。
 ところが庄屋は、怒りにわなわなと震えて、大声で怒鳴りつけました。
「この大ばかども。あれだけの責め苦で転んだ者が、改心戻しをすれば、その十倍もひどい責め苦にかけられ、しのぐことなどできるわけがない。その願いは取り上げるわけにはゆかぬ」
「ぜひに願いを、いたしまする。もし庄屋様が受け付けてくださらないならば、これから長崎の代官に直訴をいたしまする」
 庄屋はやむなく、その夜のうちに、彼らの名簿を添えて長崎代官に届けました。数日後、彼らは奉行所に呼び出されました。殉教覚悟で、彼らは出頭しました。
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2018年12月26日

三十九 浦上四番崩れ3ー改心戻し

 転んで先に帰った人たちは、家族から「信仰を捨てた者はきっとテングがついたに違いない。家に入れると一緒にテングもついてきて、みんな転んでしまう。だから家に入れるな。もしあなたが家にいるなら私が出る」と言われ、家にも入れてもらえませんでした。かといって外にもおられず、天主を捨てたという思いで、身一つ置くところなく、昼も夜も山の中で、3日3晩泣いていました。そこへ仙右衛門が帰ってき、まるで凱旋将軍のように村人が迎えていました。
 平生は強よそうに見え、教理もよく知っている伝道士たちが、みんな転んでしまったのに、無学で弱々しく見えた仙右衛門が、ひとり信仰を守り通したので、転んだ連中は、恥ずかしくてたまらなくなりました。
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2018年12月25日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

彼が一人だけ転ばずに信仰を守り通せたのは、特別に主にすがり、自分の弱さを覚えて祈っていたからでした。いやむしろ、彼は弱かったからこそ、断食までして、主イエスさまと聖霊さまに、真剣に助けを求めたのです。そしてその祈りは、主に聞き届けられ、彼はどんなに目の前で、ひどい責め苦を見せられ、他の者たちが目の前で、ひどい責め苦を見せられ、他の者たちが目の前で次々に転んでいっても転ばなかったのです。主は、ほかの誰でもなく、字も読めず無学であっても、祈り、主にすがる者に助けを与え日本の信仰の自由を勝ち取らせてくださったのです。
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2018年12月24日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

祈りによって

 仙右衛門は、転んで牢を出された人より3日遅れて、転ばず信仰を守り通し、村(乙名)預けということで、浦上の村に帰されました。その時村の人が仙右衛門に、どうしてあんなひどい拷問をしのぐことができたのですかと聞きました。「どんな強い人間でも、あんな目に遭わせられたら、人間の力だけでは、とてもしのぐことができません。私が転んだら天主さま、また日本のたくさんの殉教者に対して申し訳ないと思い、断食の祈りをささげ、聖霊さまのお助けを祈っておりました。聖霊さまのお力で、しのげたのでございましょう」と仙右衛門は答えました。
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2018年12月23日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右エ門

祈りによって

 ただひとり高木仙右エ門は、転びませんでした。 この人は農民でした。字は読めず、特別な学問を受けたわけでもなく、見た目には弱そうな人で、仲間さえ、どこからそんな勇気が出てくるのか信じられないくらいでした。彼は、ただ単純に、教えられたことを信じて守っていただけでした。毎金曜日にはキリストの御受難を思って断食をし、祈っている人でした。
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2018年12月21日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右エ門

過酷な拷問
駿河問いという責め苦(「ドドイ」とも呼ばれる)を受けるため、6人が選ばれました。これは両足を背中に反らせて、両足首と両手首、それに首、胸にも縄をかけて、それを背中の一ヶ所にくくり寄せ、その綱を梁(はり)に巻き上げ、体を弓のように反らせて、つるすのです。コマにように勢いをつけて、振り回し、次によりを戻して逆に回転させます。そして下に立った役人が棒とむちで散々に打ちたたきます。するとほとんど気絶してしまいます。それから地面に引き下ろして水をかけ、正気に戻して繰り返すのです。水をかけると縄は、短く縮み、肉に食い入り、皮膚は紫色に変わります。そして、また気絶してしまいます。こうして6人は門口に引き出され、捨て物のように転がされました。
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2018年12月20日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右エ門

過酷な拷問
駿河(するが)問いという責め苦
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2018年12月19日

三十七  浦上四番崩れー捕縛

 10月5日、68人は再び小島牢から桜町牢に移されましたが、その時には彼らは83名となり、2坪ちょっとの4畳半の牢に38人が詰め込まれるありさまでした。それでも彼らは、責められても、苦しめられても、信仰を、この時までは守っていたのです。 けれども桜町牢での拷問は凄惨(せいさん)を極め、その結果、ついに高樹仙右エ門ただ一人を残して、82人が転んでしまうのです。
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