2019年07月02日

十八  西坂の丘ー自分の十字架を抱きしめた26人

西坂の丘には、26個の穴が掘られていました。そして、その一つ一つの穴の前に、真新しい26の十字架が、一本ずつ置いてありました。その26本の十字架は注意深く削られ、入念に作られていました。一本一本の十字架は、ほとんどが2メートル以上もの高さがあり、両腕を留める長い横木と、それよりやや短い足を押さえる横木がついていました。その一つ一つの十字架には、5つの鉄枷がついていて、一つは首を、2つは手首を、残りの2つは足首を、十字架に固定するようになっていました。
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2019年07月01日

十八  西坂の丘ー自分の十字架を抱きしめた26人

「人若し我に従わんと欲せば、己を捨て、十字架をとりて我に従ふべし」(マルコ伝8章34節)
1597年2月5日、26人が殉教する日がやって来ました。彼らは時津の沖の小船から陸にあげられると、すぐに歩き始め、途中、浦上のらい病院で短い休憩の時間をとりました。短い休憩が終わった後、役人のかん高い声が響きました。再び出発の命令が下ったのです。彼らは、西坂の丘を目指して歩き始めました。彼らが殉教する地に向かって、歩き始めました。
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2019年06月30日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求め

父子の別れ
「ジュアンよ、その通りだ。決して怠りはしないから、おまえは元気いっぱい力に満ちて、喜んで死んでいきなさい。お前は、神さまの忠節のために死ぬのだから、父は喜んで、お前の死を見届けよう。私も、お前の母上も、必要とあらば、主がおぼし召しになる時に、神の愛のために、キリストさまに、この命をささげる覚悟も、用意も、できています」この年老いた父は、愛する息子と抱き合い、言葉を交わすと、もう何も思い残すことはないと、足早に去っていきました。
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2019年06月29日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

父子の別れ
ちょうどその時、ヨハネ五島のお父さんが、ちょうどそこへ、やがて死につくわが子に、最後の別れを告げにやってきたのです。ヨハネ五島は年老いた父の姿を見つけると、やにわに駆け寄りしっかりと、父と子抱き合って、こう言いました。「お父さま、魂の救いより大切なものは何もありませぬ。このことを、よくお考えになってください。そして決して油断せず、怠らぬよう、くれぐれもお頼み申します」
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2019年06月27日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて  

まず、はじめに修道士(イルマン)のパウロ三木が、パシオ神父の前にひざまずいて告白し始めました。しかし、後ろ手に縛られたままだったので、パウロ三木は帽子を脱げずに困っていました。それでパシオ神父は、パウロ三木の帽子をとってあげました。それから続いて、ディエゴ喜斎と、ジュアン草庵ともいわれるヨハネ五島が、告白しました。この2人の告解が終わると、パシオ神父は2人を正式にイエズス会に入会させました。この時ディエゴ喜斎65歳。殉教者の中で最年長でした。一方、ヨハネ五島、キリシタンの両親のもとに生まれた弱冠19歳の青年でした。
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十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

時津から歩き出した26人は、谷底を縫うようにして、小道を歩きました。そして西坂に向かう途中、ほんのひと時、浦上にあるらい病院で休憩の時をとったのです。そこには、イエズス会のパシオ神父がまっていました。彼は、3人のイエズス会士の告白を聞くために、会いに来ていたのです。
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2019年06月26日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

浦上のらい病院
京都から始まった彼らの旅は、もうまもなく終わろうとしていました。最後の夜を過ごした時津を後にして、夜明けとともに26人は、再び歩き始めました。処刑される殉教の場所の西坂を目指して、彼らは、歩いたのです。このころには、京都で切られた耳は血と泥に汚れ、かさぶたができていました。
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2019年06月24日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

京都と大阪で捕らえられてから、1カ月近くわたった800キロの旅も、明日終わろうとしていました。彼らの体は、もうすっかり弱り果てていました。けれども彼らの心には、主イエス・キリストへの愛と、永遠の御国ー天国への確かな希望がありました。彼らの主に対する信仰は、決して寒い凍てつくようなこの夜も失われることなく、静かに、でも確かに燃え続けていたことでしょう。そして、2月5日の夜明けがきました。彼らの殉教する日が、やってきたのです。
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十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

また、たとえ家族の誰かを失っても、彼らは、主を信じ続けました。主を愛し続けました。彼らは、天国で再開できることを知っていたからです。彼らは、この地上では旅人であり、寄留者であることを証ししたのです。このような信仰の家族が、かって日本にあったのです。これは驚きでもあり、希望でもあります。主は、再びこのような家族を、この国に起こし始めておられるのではないでしょうか。終末のリバイバルに向けて、迫害と殉教の時代に備えて、主は、このような家族を、再び日本に建て上げておられるのです。
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2019年06月23日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

家族
殉教者たちはが育まれた、彼らの家族には、神の愛が注がれていました。主への信仰を中心とした、神の愛があったのです。彼らは、尊敬し、愛し合っていたのです。しかも、主のためには、自らの命をささげて、家族を主に委ねるほどの信仰でした。
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2019年06月22日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

家族
私はある時、この時津の港に立って、しばらく祈り、主に聞きました。26人の殉教者たち、その中でもとりわけ、3人の少年たちが持っていた、主への信仰と天国への希望は、一体どこで育(はぐく)まれ、培われてきたのですかと。その時主は答えを下さいました。「それは、家族である」と。とても静かに、でもはっきりと、主は語られたのです。「それは家族である」と。
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2019年06月21日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

1597年2月4日、地上での最後の夜を26人の殉教者たちは、、時津(とぎつ)の港で明かそうとしていました。居心地の悪い小さな小舟の中で、後ろ手に縛られながら、彼らは、最後のゲッセマネの夜を、祈りながら明かしたことでしょう。この時津の港に立って湾を眺めて祈っていると、彼らの息遣いが聞こえてくるような気がします。
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2019年06月20日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

「けれども、私が自分の走るべき行程を走りつくし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません」(使徒の働き20章24節)
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2019年06月19日

十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ 

しかもこの夜は、ことのほか寒さが厳しかったので、殉教者たちは、体を寄せ合って祈り合いながら、暖をとり、この地上での最後の夜を過ごしたと言われています。彼らにとって、この夜はまさにゲッセマネとなりました。そして、彼らにとってゲッセマネとなった2月4日の冬の夜が、やがて明けようとしていました。
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2019年06月18日

十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

ゲッセマネ
26人の殉教者たちは、後ろ手に縛られたまま、居心地の悪い舟の中で、その夜を明かさねばなりませんでした。殉教者たちは、寒風が吹きすさぶ中、夜露にぬれながら、この夜は、ほとんど眠らないまま過ごしたようです。
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2019年06月17日

十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

ゲッセマネ
ところが、殉教たちが時津の岩壁に着いても、上陸は許されませんでした。時津は、キリシタンの町でした。護送役人たちは、キリシタンの人々が、殉教者を取り戻そうと暴動を起こしはしないかと恐れたのです。もちろん、そんな事をするわけはありませんが、護送役人たちは、自分たちの尺度で考えて恐れ、心配して、警戒して、上陸を許さなかったのです。
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2019年06月16日

十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

時津へ
26人の殉教者たちは、彼杵の港から3隻の舟にに乗せられて、時津へと向かいました2月4日、夕方の6時ごろだったと言われています。ペテロ・バプチスタ神父をはじめとする、6人の外国神父以外は全員、首に縄をかけられ、その縄で両手を後ろ手に縛られていました。そしてなんの覆いもない3隻の小舟の上に26人は分乗させられて、凍てつくような夜の海を対岸の時津までおくられたのです。彼杵を出た舟は、冷たい潮風にさらされながら、夜の11時ごろに時津に着きました。このとき、26人の殉教者たちは、彼らの地上での最後の夜を迎えようとしていたのです。
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2019年06月14日

十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

赦しと和解
その26人の殉教者たちは、峠を降りて彼杵(そのぎ)の港に着きました。そこで彼らは、イエズス会のヨハネ・ロドリゲス神父とパシオ神父に会うのです。実はイエズス会とフランシスコ会の間には、宣教の考え方や、やり方にずいぶん違いがありました。ともにイエス・キリストを宣べ伝えていきたいと強く願っていましたが、時として二つの会の間で意見が激しくぶつかり合うこともあったのです。それでこの時、ペテロ・バプチスタ神父はフランシスコ会を代表してイエズス会の神父である彼に、謝罪と和解を言いました。
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十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

赦しと和解
「私たちは間もなく、死出の旅路につきますが、今までイエズス会の神父の方々に、ずいぶんとご迷惑をかけたことと存じますが、どうか、その一切をお赦しください」と。するとそれに対して、ロドリゲス神父も、「私たちもまた、イエズス会の名において、フランシスコ会の方々に、あなたと同じ事をお願いし、おわびいたします」と語り、二人はお互いを赦し合って、そこで固く抱き締めあったのです。
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2019年06月13日

十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」(マタイの福音書5章24節)
殉教への旅の中で、最も険しい俵坂峠を越えたところで、日本の将来を思って涙を流したペテロ・バプチスタ神父。その涙の祈りの答えが私たちなのです。
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2019年06月12日

十五  涙を止めたペテロ・バプチスタ神父

宣教師魂ー魂への情熱
私は、ペテロ・バプチスタ神父が、日本の将来を思って、思わずも泣いてしまったのを見て深く感動しました。しかし、それにも増して、彼が流れていた涙を、まだキリストを知らない人につまづきを与えたくないと、止めたことに、もっと深い感動を覚えるのです。これはまさに宣教師魂、これぞまさに魂への情熱。私も彼が持っていたこのスピリットを、主から頂きたいと、心から祈らずにはいられません。
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2019年06月11日

十五  涙を止めたペテロ・バプチスタ神父

パウロ三木は、ペテロ・バプチスタ神父に頼みました。するとペテロ・バプチスタ神父は、それまで流していた涙を止めて、冷静さを取り戻したのです。まだキリストを知らない人に、つまづきを与えたくはないという思いが、彼の涙を止めたのです。
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2019年06月10日

十五  涙を止めたペテロ・バプチスタ神父

役人たちの誤解
しかし武士出身のパウロ三木が、この役人たちのささやき合っている声を、聞いたのです。彼はバプチスタ神父が、なぜ泣いているのか知っていたので、たまりかねて神父のところに近づき、神父に言いました。 「ペテロ・バプチスタ神父。役人たちや見物人たちが、あなたの涙を見て、死ぬのが怖いから、泣いているのだと全く曲解して、あなたのことを、ひきょう者とやじっています。私は、あなたが、なぜ泣いておられるのか分かります。でも彼らには、分からないのです。神父、どうか彼らには、涙を見せないでください。誤解されてしまいますから、どうか涙を見せないでください」
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2019年06月09日

十五  涙を止めたペテロ・バプチスタ神父

役人たちの誤解
ところが、ペテロ・バプチスタ神父のこの様子を、ニヤニヤ笑いながら遠くから眺めている人がいました。役人たちでした。役人たちは、部下にニヤニヤ笑いながら耳打ちしたのです。「見てごらん。珍しい神父の涙だ。あの高名なバテレンも、いよいよ死ぬ日が近づいたので、十字架にかかるのが恐ろしくて、泣いているわい」役人たちが意地の悪い皮肉笑いを浮かべながら、うわさし合っているのを、バプチスタ神父は知りませんでした。
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2019年06月08日

十五  涙を止めたペテロ・バプチスタ神父

もちろん彼が涙を流したのは、自分の命が惜しいからでも、死が怖いからでもありませんでした。彼が泣いたのは、この国、日本の将来を思って泣いたのでした。この国は一体この後、どうなっていくのだろう。迫害の嵐は、今、吹き始めたばかりで、もっと激しくなるだろう そうなると、この国の宣教は、どうなってしまうのだろう。この国の、まだキリストを知らない人たちは、どうして信じることができるだろう。クリスチャンも、信仰を持ち続けることが困難になるだろう。そう思うと、彼の目から、とめどなく涙がでてきたのです。
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