2018年12月10日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

浦上四番崩れ

 その数日後に来埼したアメリカ公使ワルケンブルグも奉行に抗議し、牢内にいる信徒たちを見舞いました。大国アメリカの全権公使が、農民信徒たちを親切に慰問したことは、長崎奉行をずいぶん驚かせたようです。領事たちは「日本が宗教を許さないということは、野蛮国であるという証拠であり、このたびの事件が本国へ報告させられたならば、日本の立場は非常に悪くなるでしょう。対等の条約が結べなくなるかもしれません。ですから早急に信者を放免し、更に進んでキリシタン禁教命令の高札を取りのける方が。りのける国家のために良いでしょう」と注意しました。
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2018年12月08日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

浦上四番崩れ

 1867年7月15日の早朝3時ごろ、大雨をついて安藤弥之助の指揮する捕手たちが、数隊に分かれて浦上の秘密聖堂や主だった信者の家を襲い、踏み込みました。秘密聖堂は散々荒らされ、68人が捕らえられて桜町牢に入れられました。これが「浦上四番崩れ」と言われている大迫害の発端です。こうして浦上で、再び迫害が始まったのです。キリシタンであるという信仰の理由だけで、このような捕縛投獄が行われたことは、居留外国人たちに大きな衝動を与えました。そしてこの事件は、その日のうちに外交問題となりました。 その日(7月15日)の午前11時、プロシア領事が、翌16日にはフランス領事レックスが、その翌日17日は、ポルトガル領事ロレイロが奉行所を訪ね、抗議しました。
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2018年12月07日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

庄屋があわてたのも無理はありません。「それでは聖徳寺との縁を切りたいものの名簿を出せ」と言ったところ、本原郷400戸、家の郷100戸あまり、中野郷100というように、元来の仏教徒と裕福ではあるが信仰心の薄かったキリシタン30戸だけを除いて、村人のほとんど全部が名を連ねたのです。これで、ついに浦上村の人々がキリシタンであることが、明るみにでたのです。そこで長崎奉行所では、たくさんの間者を浦上に潜入させ名簿を作り、主だった指導者たちのことや4か所の秘密聖堂の坪数、間取りまで詳しく調べさせていました。
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2018年12月03日

キリシタンの復活3−自葬問題

庄屋は「今の坊さんたちが嫌いなら、お坊さんを代えてやる」と言いましたが「どなたであろうと坊さんは要らないのです。お寺とは縁を切りたいのです」と答えました。これは大変なことでした。なぜなら死人が出た時、坊さんを呼んでお経を上げるというのは、祖法(徳川家康、秀忠、家光三代の間で決まった背くことのできない大事なおきて)だったのに、それを「嫌です」と言ったのですから。

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2018年12月02日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

翌6日、平の宿の久蔵が死んだときには、聖徳寺にも知らせずに自葬してしまいました。それを知った聖徳寺が、庄屋の訴え出て問題になってしまいますその問題になっている真っ最中4月14日、平の三八の母たかがしにました。今度は庄屋が気を利かせて坊さんを連れてきましたが、家の者が承知しないで、お経をあげるのを断り、自葬しました。
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2018年11月29日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

自葬問題

当時は、死人があると必ず檀那寺(だんな)の坊さんを招いて読経を頼み、坊さんの立会いの下で納棺することになっていました。しかし神父から指導を受けるようになると、このような表面仏教という態度を清算しなければいけなくなったのです。1867年4月5日 本原郷の茂吉が死んだとき、これまで通り聖徳寺の坊さんを呼んできましたが、使いの者が途中で、わざとつまらぬことを言って坊さんを怒らせたので、坊さんは帰ってしまいました。それで幸いと、茂吉の家では坊さんなしで時葬してしまったのです。
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2018年11月28日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

プチジャン神父は、ちじれ髪やひげをそり落とし、シュロの毛を黒く染めて作ったかつらをかぶります。そして日本の農民の着物を着て、わらじをはいて角帯を締め、手ぬぐいをほおかぶりして日本人に化けるのです。そうやって、夜中に山の中の小道を案内されたり、小舟に乗せられたりして、村や島々を回りました。一方では、大浦天主堂の屋根裏部屋に、村々の代表や青年たちを集めて、いろいろと教えました。そして伝道師として村へ帰しました。こうして彼らの信仰は、日ごとに強められ、燃やされていったのです。
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2018年11月27日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

役人の目を盗んで

それではでも信者たちは、役人の目を盗んでは、夜となく昼となく、天主堂に入りこんでオラショを唱え、神父たちと話をするのでした。それが役人の目に余り程く映ると、新しい迫害が起こるかもしれません。 そこで、プチジャン神父は信者たちに、天主堂に来るのを遠慮するように言い、自分の方から出て行って信者の代表と会うことにしました。また信者の隠れている村々や島々へも出かけることにしたのです。
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2018年11月26日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

7代250年間待ち続けていた神父が、ついにやってきたのです。 イサベリナゆりたちがフランス寺であった異人がその神父であるということは、その日のうちに浦上中に知れ渡り、浦上の全村民が知るところとなりました。すると、その翌日から、浦上の信者たちは続々と、早朝から天主堂へ来るようになりました。しかし、日本はまだ、厳重な禁教下にあったので、役人たちの警戒もまた、急に厳しくなりました。
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2018年11月24日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

彼らが、さらに神父に質問をしようとすると、ほかの日本人が、天主堂に入ってきましたその途端、神父の周りにいた彼らは、たちまちぱっと八方に散り散りになりましたがすぐまた帰って来て「今の人たちも村のの者で私たちと同じ心でございます。心配いりません」と申しました。
こうして、浦上のキリシタンが、発見されたのです。そして、それに引き続いて、長崎県だけでも数万人ものキリシタンが潜伏していることが、明らかになりました。 1614年1月大禁教令から251年にわたる、厳しい迫害と殉教の期間を潜伏し続けたキリシタンは、ついに復活したのです。 これは他国に類を見ない出来事として、世界宗教史上でも注目されています。 
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2018年11月23日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見 三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

 確かに彼らは、イエス・キリストを信じて、神父の来るのを250年間待ち続けていたのです。彼らの中の一人が、さらに申しました。「御主(ゼスス)さまは・・・33歳の時、私たちの魂の救いの為に十字架にかかって、お果てになりました。只今、私達は『悲しみ節』にいます。あなた様も『悲しみ節』を守りますか」「そうです。私たちも守ります。今日は『悲しみ節』の17日目です。神父は「悲しみ節」という言葉をもって「四旬節」(復活前の40日)を言いたいのだと悟ったのです。悲しみ節の期間、迫害下の潜伏の中でキリシタンたちは、断食と祈りを守り続けて来たのです。
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2018年11月21日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

 驚きながら立ち上がろうとする神父に、その婦人は畳みかけるように聞きました。「サンタマリアのご像はどこ」神父が、聖母像の前に案内すると、みんなが集まって来て「本当にサンタ・マリアさまだよ。御子ゼズスさまを抱いていらしゃる」というのでした。 プロテスタントの牧師である私は、彼らがマリア像を探していたことに、つまずきを覚えていました。ところが先日、ある神父の方が、こう言われるのを聞きました。「みな『サンタ・マリアのご像はどこ』という言葉ばかり強調する。でも大切なことは、彼らはこの像の前に来て、御子ゼズスさまを探していたことです。彼らはイエスさまを探していたことです。そのことを忘れてはならない」
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2018年11月19日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見

 プチジャン神父が、祭壇の前でひざまずいて祈っていると、天主堂の中にも窓の外にも、役人らしい人影がいないのを確かめてから、彼らの中の3人の婦人が、プチジャン神父に近づいてきました。そしてその中の一人のイサベリナゆりが、自分の胸に手を当てて、神父の耳元にささやいたのです。 「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ(ここにおります私たちは皆、あなた様と同じ心でございます。)」神父は驚いて聞き返しました。「本当ですか。どこのお方です。あなたがたは」「私たちは皆、浦上の者でございます。浦上ではほとんど皆、私たちと同じ心を持っております」この言葉を耳にした時のプチジャン神父の驚きと喜びは、今の私たちには、到底察し得ないでしょう。この時、250年にわたって地下に潜伏していた日本のキリシタンたちが、再び復活したのです。
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2018年11月18日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見

 1865年3月17日、金曜日の昼下がり、フランス寺の前に十数名の男女の農民がやって来ました。フランス寺の扉は鍵が掛けられてしまっていました。彼らにはフランス式の掛け金の開け方が分からないので、ガチャガチャとさせていると、プチジャン神父が急いでやってきて開けてくれたのです。神父が聖所の方に進んで行くと、この十数名の参観人の一行は物珍しげに、きょろきょろしながら後ろからついて堂内に入って行きました。
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2018年11月17日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

 けれども、神父はあきらめませんでした。きっと、長崎にはまだキリシタンたちが残っているに違いないと信じて、彼らと会える日を待ち望んでいたのです。それで、プチジャン神父は、長崎ばかりでなく、その郊外辺りにも、たびたび出かけて、キリシタンらしき家はないかと訪ねて歩いていたのです。ある時には、子供にお菓子を与えて、食べるときに十字を切りはしないかと気を付けて見てみたり、またある時は、わざと馬から落ちて、もしもキリシタンなら思わず助けてくれはしないかと試してみたり、いろいろとやってみましたが、みんなあてが外れて、信者らしい人とは出会えませんでした。
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2018年11月16日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

1865年2月19日、フランス寺と呼ばれていた大浦天主堂の献堂が行われました。 プチジャン神父は、ひそかに期待していたことがありました。それは、きっと昔からのキリシタンが、長崎には残っていて、天主堂ができれば、すぐにでも名乗り出てくるだろうと、楽しみにしていたのです。
ところが、献堂式の日には、日本人は誰も姿を見せませんでした。フランス領事から長崎奉行に案内状は出されていましたが、下役が、代理として来ただけでした。それで、彼らは大いにがっかりしてしまいました。
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2018年11月15日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂  

大浦天主堂ーフランス寺

フューレ神父は,その翌年に帰国しますが、代わりに赴任したプチジャン神父は、日本人を使って、日本の材料で工事を進め、ついに1864年12月29日に落成し、翌1865年2月19日に献堂します。この天主堂は、北に向かって、二十六聖人が殉教した西坂に向かって真向かいに建てられているので26聖人 日本二十六聖人教会、あるいは二十六聖人殉教者堂と名付けられました。しかし町の人々は、当時フランス寺と呼んでいました。今は地名にちなんで大浦天主堂と一般に言われています。
この大浦天主堂で、浦上信徒の発見がなされたのです。
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2018年11月14日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

これによって、今まで禁止されていたキリスト教信仰が、外国人居留地に限って公認されたのです。そしてこの結果、長崎にも天主堂が建てられることになりました。
大浦天主堂ーフランス寺
1863年、フランス人のフューレ神父は、大浦の南山手に天主堂を建てるための工事に着工します。
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2018年11月13日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

鎖国破れる

 1853年にペリーが浦賀に来て、鎖国を続けていた日本は、外からの圧力の力によって、目を覚まされることになります。そして5年後の1858年(安政5年)、日本はアメリカ、ロシア、イギリス、フランスと修好条約を結び、長崎港などの5港が開港されます。その結果、外国人居留地ができるようになりました。ここに、ついに200余年にわたって続いた日本の鎖国は破れたのです。この修好条約の中には「居留民(外国人)は自国の宗教を自由に信仰いたし、その居留の場所へ、寺社(自分の宗教の礼拝堂)を立てるも妨げなし」と書かれていました。
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2018年11月12日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

実際に、1867年に始まった「浦上4番崩れ」と、それに続いて起こった大村領木場の三番崩れ、悲惨極まる五島崩れ、外海や伊王島、蔭の尾島、大山、善長谷などの離島へき地にまで及んだ残酷な迫害の中で、殉教する者たちも出ました。 キリストの信仰の自由を勝ち取るために、どうしても、このような厳しい季節を、忍びながら通過しなければならなかったのです。
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2018年11月11日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

7代250年間、バスチャンが残した予告預言を握って、コンヘソーロがやって来ることを信じて持ち続けた浦上のキリシタンたち。その予告通りに、7代目に当たる幕末に黒船がやって来て、大浦天主堂が建ち、神父が来て、キリシタンの復活が起こるのです。しかし、彼らが信じて待ち続けた、大声でキリシタンの歌を歌って歩ける喜びを得るためには、もうしばらくの時と、迫害と殉教という困難と試練が必要だったのです。 この国が、鎖国を解き250年以上も続けたキリシタン弾圧と迫害を止めて、キリストを信じる信仰の自由を得るためには、再び殉教の血が、流されなければなりませんでした。
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2018年11月09日

三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの4つの予告預言に

また長崎港の近くに善長谷というカトリック信者の村がありました。ここは、もともとは善定谷といいましたが、左八という水方が引率して家族と2人の独身者が移住してきたのです。左八は臨終の時、各戸の家頭を枕元に集め、諭して言いました。「やがて黒船に乗ってくる人と一つになれ」とこのように「7代たったらコンヘソーロがやってやって来る」という預言の言葉は、潜伏しているキリシタンたちにとって、とても大きな希望となっていたのです。 そして、その予告預言の 通りに、7代目に当たる幕末に黒船がやって来、キリシタンの復活が起こるのです。

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2018年11月08日

三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの4つの予告預言

外海の形右衛門
 「牛肉も食べられる世にはなるが、それは金持ちや上っ方ばかりで、我々貧乏人の口には乗るまい。その日が近づいたというのに、このわしは何と
不幸なんじゃ。コンヘソーロに会(お)うて、コンヒサンを申すこともできないで死んでしまう。しかし、お前ら若いものは、その時代を見ることができるのじゃ」 ところがある日、大きな黒船がやってきたと言って人々が騒いでいるのです。彼は小高い丘に登って、そのところを打ち眺めました。「これじゃバスチャン様の預言の黒船じゃ。じゃが、わしはコンヘソーロに会うて、コンヒサンを申すまでは生きてはおらぬ」そう言って、彼は涙をこぼしたのです。
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2018年11月07日

三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの予告預言

バスチャンの4つの予告預言

バスチャンが残した4つの予告預言とは、次のようなものでした。 一、お前たちを7代までは、わが子とみなすが、それから後はアニマ(霊魂)の助かりが困難になる。 二、コンヘソーロ(告解を聞く神父)が大きな黒船に乗ってやってくる毎週でもコンヒサン(告解)ができるようになる。三、どこででも大声でキリシタンの歌を歌って歩ける時代が来る。 四、道でゼンチョ(ポルトガル語で教外者)に出会うと、先方が道を譲るようになる。 キリシタンたちは、この4つの預言の言葉を、心に大切に抱きながら、告解を聞いてくれる神父がやって来て、大声でオラショ(お祈り)することのできる日を、7代250年間、信じて待ち続けたのです。 そして、預言が成就する日が、やって来たのです
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三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの4つの予告預言  

外海の形右衛門
バスチャンから7代たった時に、長崎の外海というところに形右衛門という1人の老人がいました。彼は信仰篤い人で、コンヘソーロ(神父)が来るのを、ずっと持っていました。彼は、涙を流しながら、こう言っていたのです。「黒船の渡来も遠い事ではないぞ、コンヘソーロがやって来て、コンヒサンを聞き罪科の赦しを頂ける日は近づいた。オラショも教えも大声でできるようになるぞ。」

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