2019年02月19日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院 


孤児のための働き
赤痢が下火になったころ、台風が襲い、大暴風が浦上のバラックを吹き飛ばしていきました。それが片付いたと思ったら、今度は港の入り口の島々(蔭の尾島)に天然痘がはやりました。病気を恐れて、家族の者でさえ、患者を見捨てて逃げるほどでした。村にも町にも、親を疫病で奪われた孤児たちの姿がちらほら見えました。

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2019年02月18日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

ド・ロ神父と篤志看護婦
ド・ロ神父は毎夜、大浦天主堂に戻りました。 マキたちは家に帰ると家族に伝染させる心配があったので、どこかに合宿することにしました。その時高木仙右衛門が、自分の小屋を提供しました。そこで4人は共同生活を始めました。夜遅く合宿しているこの部屋に帰って来ても、そこには、ござと板の上に敷いた布団が一枚あるばかりでした。食器は茶碗がたった一つ、何か飲めるものを作って、その茶碗で娘たちは回し飲みしました。そして心を合わせて一心に祈ったのです。神父は娘たちに医学を教えただけではなく、祈りを教え、聖書のみ言葉を教えることにも力を入れました。こうして次第に修道会の生活に近づいて行きました。
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2019年02月17日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

ド・ロ神父と篤志看護婦
この救護活動を見て心動かされ、すぐにその案内と手伝い、患者の身の回りの世話を申し出たのが岩永マキでした。マキが動いたのを見ると、ほかにも守山マツ、片岡ワイ、深堀ワサという女性たちが共に立ちあがりました。彼女たちは皆、「旅」の中で迫害を受け、拷問にかけられて辛酸をなめてきた人たちでした。篤志看護婦となったこの4人の娘たちは、神父から看護法を教えてもらい、恐ろしい伝染病がはやっている町々村々を回り、大勢の人を助けました。
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2019年02月16日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

ド・ロ神父と篤志看護婦
 浦上村民の窮状を見たド・ロ神父は、毎朝4キロあまりの道を、薬箱を提げて大浦から浦上に通い、病院の診察投薬に従事しながら、予防措置を教えて回りました。ド・ロ神父は、ただ脈をとり、薬を与えるだけではなく、患者の一人一人に神のことばを語って、慰め励ましたのです。
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2019年02月15日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

浦上を襲う天災
キリシタンたちが、浦上に帰ってきた翌年の1874年夏、まず赤痢が流行します。そこへ追い打ちをかけるように8月21日、台風が来襲し、長崎は大被害を受けます。前年建てたばかりの浦上のバラック長屋は、総倒れとなり、昔からあった家も含めて、全戸数の半分は倒壊しました。1年かけて辛苦の中で育てた農作物は、風に吹きちぎられ、収穫は皆無となりました。米価は暴騰し、食べ物にも困った浦上農民に、赤痢はますますひろがりました。そして浦上だけでも210人の患者が出ました。しかし、この悪条件の中で、赤痢という恐ろしい疫病を210人の患者で食い止め、8人の死者にとどめたのは、ド・ロ神父と彼を助けた岩永マキら篤志看護婦の献身があったからです。
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2019年02月14日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

浦上を襲う天災
彼らには、本当に何もなかったのです。あばら家に住みつつ、港に行って皿のかけらを拾い、それで荒れ果てた畑を耕しました。近くの村に日雇いに出て、イモやキュウリの苗をもらいながら、働き始めました。こうして1年が過ぎ、やっと畑からもいくばくかの実りが収穫され、生活もようやく一息つき、落ち着いたと思ったところへ、疫病や天災が折り重なって、浦上を襲ったのです。
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2019年02月13日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

浦上を襲う天災
キリシタンたちが帰ってきた時、浦上の地は荒れ果てていました。浦上四番崩れから帰ってきた人の中で、原子爆弾が落とされた後も生き残った老人が10人ばかりいましたが、原子野に翌年雑草が一面に茂ったのを見て、流罪から帰った時によく似ていると言いました。
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2019年02月12日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

大声でオラショできる
彼らの生活は極貧を極めました。けれども、彼らの内にある喜びは、その貧しさによっては、決してけすことのできないものでした。彼らは、毎日毎日大声でいのったのです。主イエスに感謝しながらオラショをささげました。日曜日には、大浦天主堂に行って、ミサにあずかりました。8キロばかりあるのですが、彼らは少しも遠いとは思いませんでした。
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2019年02月11日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

大声でオラショできる
もちろん家財道具などは、全くと言っていいほどありません。このように軒の傾いたあばら家と狭いバラック長屋ではありましたが、彼らはとても喜んでいました。それは、主の恵みによって、キリストへの信仰を守り通して故郷に帰ってくることができた上に「大声でオラショ(祈り〉することができる」時世になった事が、なによりもうれしかったからです。

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2019年02月10日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

大声でオラショできる
  流されていた3394人のうち1900人が、ついに浦上に帰ってきたのです。しかし、そのうち736人には、家がありませんでした。「旅」の間に壊されてしまっていたのです。残りの1164人には家はあったのですが、家とは名ばかりの、壁も瓦も落ちたあばら家になっていました。もちろん畳や建具などは、全くありませんでした。そこで、家なしの人のために竹の久保の官有林からキリシタン出した木材で、一人当たり一坪の3,4件続きのバラック長屋を建てて、ともかく落ち着かせることになりました。
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2019年02月08日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

1873年3月14日、ついに彼らは流配(るはい)地から浦上に帰ってきたのです。彼らのキリストへの信仰が、日本のかたくなな政府に勝利したのです。しかしその時には、613人はすでに流された地で殉教し、亡くなっていました。また6年余りにわたってなされた残酷な拷問の中で。1011人は転んでしまったのです。この数字を見ても、彼らのへの迫害がどんなに厳しく残酷だったかがしのばれます。彼らの大部分は帰郷後、再び元の信仰へ戻りました。
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四十三  浦上四番崩れ7−天災

キリストへの信仰を捨てない。ただそれだけの理由で「一村総流罪」となり、西日本諸藩に流された浦上キリシタンたち。しかし主は、彼らが示したキリストへの愛を忘れず、彼らの主イエス・キリストへの従順を通して、キリストに対して全く心が閉ざされていたこの国に、信仰の自由を与えてくださいました。
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2019年02月05日

四十二  浦上四番崩れ6−信仰の自由

信仰の自由
 さすがに、こんな異国に地で 浦上の名前を聞こうとは思ってもいなかったので、最初は日本の内政問題であると突っぱねていた岩倉大使を中心とする使節団も、キリシタン邪教政策を修正せざるを得なくなったのです。そして1873年2月24日、キリシタン禁制の高札は撤去されたのです。 ここに、1614年より始まったキリシタン禁制は262年ぶりに効力を失い、日本にキリストを信じる信仰の自由が与えられたのです。  3月14日、各地に流されていた浦上のキリシタンたちは、釈放され帰村することになったのです。

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2019年02月04日

四十二  浦上四番崩れ6−信仰の自由

信仰の自由
 ちょうどそのような時、1871年12月24日に岩倉具視を全権大使とする一行がアメリカからヨーロッパ各国へ、不平等条約改正の交渉のために行きました欧米のどこの国でも、必ずキリシタン迫害の事が持ち出され、「キリシタンを迫害するとは野蛮国である」厳しく詰め寄られ、信仰の自由を条約に記すようにと、非常に強く迫られました。特にベルギーのブルッセルでは、市民たちが大使らの馬車に押し寄せて、浦上キリシタンの釈放を叫び、「流されている浦上キリシタンを牢から出せ」と言ってやめませんでした。
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四十二  浦上四番崩れ6−信仰の自由

信仰の自由
各地に流された浦上のキリシタンたちは、津和野と同じように激しい迫害の中で、主にすがり、聖霊さまの助けを受けながら耐え忍んでいました。彼らの頭にはキリストを信じる信仰を、命をかけても守ろうという思いしかなかったことでしょう。しかし、そのことは彼らの知らないところで「信仰の自由」という世界的な問題となっていたのです。日本は、この迫害のゆえに諸外国から抗議を受けていました。流されたキリシタンたちに対する拷問は、外国使節団の耳に入り、諸外国の新聞や雑誌で報道され、批判され、どこの国でも沸き返るような世論となっていました。
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2019年02月03日

四十二  浦上四番崩れ6−信仰の自由

子供の単純な信仰
 ハライソへ行ける、というのがただひとつの望みであり、最も大きな喜びだったのです。子どもの信仰は、このような単純なものでした。しかし、単純だからこそ、余計に堅かったといえるでしょう。またある時は、肥えくみに来た近くの農民たちが、子どもを喜ばせようとして、無くセミを捕まえて子供たちのいる牢に投げ込むと、子供たちは大喜びでそれを捕まえると、鳴かせて楽しむどころか、そのまま口に入れて、ばりばりたべてしまうのです。 子どもたちは、そんなにも飢えていましたが、信仰に固くたっている母にくっついて信仰を守り通しました。
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2019年02月02日

四十二  浦上四番崩れ6−信仰の自由

子供の単純な信仰
ある日、3歳の子どもが一人で裁判に呼び出されました。役人はおいしそうなお菓子を見せびらかし「キリシタンをやめたらみんなこのお菓子をあげるよ」と言って誘惑しました。子供は頭を横に強く振りました。「どうして?このお菓子とってもおいしいんだよ」と役人が言うと、子どもは「お母がね、キリシタンば捨てないとハライソ(天国)へ行ける、言うたもん。ハライソへ行けばね、そげんお菓子より、もっともっと甘か物あると・・・」と答えました。
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2019年02月01日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

空腹の中で
 こういう責め苦に遭うと、男より女の方が強く、かえって女から男が励まされていました。 子供は母の教えた通りにします。こういう大きな迫害の中では、主婦がしっかりしていた家族だけが、最後まで信仰を守り通しました。
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2019年01月31日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

空腹の中で
母親は自分の食べる物も子供に与えるので、見る見る痩せていきます。そしてその弱り果てた体を裁判に引き出して、キリシタンをやめろと手を替え品を替え、繰り返し責め立てます。 絶えず腹を減らされ、仕事もさせられず、大勢狭い部屋に詰め込まれて、二月も同じ説教を聞かされると、次第に望みも薄くなり、体も弱り、頭も変になって、ついテング(悪魔)の誘惑に乗ってキリストへの信仰を捨てる気になってしまうので、彼らにとってはこれほど恐ろしい効き目のある責め苦はないのです。
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2019年01月30日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

空腹の中で
 さらに津和野には、先に流されてきた28人の家族の125人が、2月の初めに着きました。もうすでに役人たちは説教だけでは 転宗させることができないと分かっていたので、空腹の責め苦に掛けました。1日に米1合3勺、みそを親指の大きさほど、塩ひとつかみ、水1杯、ちり紙1枚ずつを与えました。
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2019年01月29日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

氷責め
柴束2つをたき付けとして枯れ木を立てて燃やし、二人の体を6人で抱えてその火にあぶり、ぬくめ入れ、気つけを飲ませて正気つかせました。「その時の苦しさは何とも申されませぬ」と勘三郎は手記に書いています。仙右衛門は体中がうずき、次に悪寒と戦慄(せんりつ)がきて、歯も抜けるかと思いましたが、2,3日経つと不思議なことに、もともとかかっていた熱病まで治っていたのです。
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四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

空腹の中で
 さらに津和野には,先に流されてきた28人の家族の125人が、2月の初めに着きました.もうすでに役人たちは、説教だけでは転宗できないと分かっていたので空腹の責め苦に掛けました。1日に米1合3勺、味噌を親指大きさほど、塩一つまみ、水一杯、ちり紙1枚ずつを与えました。母親は自分の食べる物も子供に与えるので、見る見るやせていきます。そしてその弱り果てた体を裁判に引き出して、キリシタンをやめろと手を変え品を変え、繰り返し責め立てます。
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2019年01月28日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

氷責め
 それよりだんだん体は 冷え凍り、震えが来、歯はがちがち鳴り出しました。その時、仙右衛門は勘三郎に言いました。「勘三郎、覚悟はいいか。私は目が見えぬ。世界がくるくる回る。どおぞ私に気を付けて下されば」もはや息が切れようとする時に、役人が「早く上げろ」といいつけました。それでも警護の役人が「早く上がれ」と二人に言いましたが「今、宝の山に登りておるからには、この池から上がられん」と勘三郎が答えたので、役人は5メートルばかりの竹の先に鉤(かぎ)を付け、鉤の先に髪の毛を巻き付け、力任せに引き寄せて、氷の中よりふたりをひきあげました。
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2019年01月27日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

氷責め
柴束を2つをたき付けとして枯れ木を立てて燃やし、二人の体を6人で抱えてその火にあぶり、ぬくめ入れ、気つけを飲ませて正気つかせました。「その時の苦しさは何とも申されませぬ」と勘三郎は、手記に書いています。仙右衛門は、は体中がうずき、次に悪寒と旋律がきて
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四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

すると氷は、みしみしと破れ、ふたりは氷の下を泳ぎ回りましたが、深くて背が届かず、やっとの思い出池の真ん中に浅いところを見つけて足先で立ち、やぶれた氷の上に頭を出して苦しい息をしました。その時、役人が「仙右衛門、勘三郎、天主が見えるか。さあ、どうじゃ」とあざけりました。そして、水を何度もくんで顔に投げつけ、息ができないようにしました。
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