2018年08月22日

二十  西坂の丘でー殉教始まる

 パウロ三木は十字架の上で、最後まで福音を語りながら、天国の希望とキリストの十字架による赦しを、語り続けていました。 4000人にも及んだと言われている集まってきた見物人たちは、少年たちの銀の鈴のような声に合わせて、主を共に賛美し始めました。そして、それはやがて大合唱となっていきました。 そして十字架の上から語られるイエス・キリストの福音に、聞き入っていました。もはやそこは、処刑場ではなく、天国が、そこには、降りてきていました。  そして、26人の処刑が、始まったのです。
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2018年08月21日

二十  西坂の丘でー殉教始まる

 大名になる誘いを断って神を選んだ12歳の少年ルドビゴ茨木は、十字架の上で高らかに詩篇113篇を賛美しています。 その隣で13歳のアントニオが、声を合わせて「子らよ。主をほめたたえまつれ」と賛美しています。彼は、まだイエスさまを信じていない両親が「十字架から降りてきて」と絶叫した時に「喜んでください」と言ったのです。2人の銀のすずのような声が、西坂の丘に、こだましています。
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2018年08月20日

二十  西坂の丘でー殉教始まる

 1596年12月に京都と大阪で捕らえられ、翌、1597年1月3日に耳そぎをされて始まった彼らの殉教への旅も、ついに終わる時が来ました。1597年2月5日、西坂の丘に26本の十字架が立ちました。26人の殉教者たちは、キリストと同じように、その十字架につけられていました。くぎ打たれたわけではありませんが、その手足はしっかりと鉄枷(かせ)でとめられていました。

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2018年08月19日

二十  西坂の丘にでー殉教始まる

「一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、ゆたかなみをむすびます」(ヨハネの福音書12章24節)

 西坂の丘に、少年ルドビゴ茨木とアントニオの詩篇113篇の賛美の声が、こだまします。その声に合わせて、見物に来ている人たちが、大合唱を始めます。 その賛美の声をバックに、パウロ三木が、十字架の上から福音を語ります。彼の最後のメッセージは「十字架の許し」でした。
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2018年08月18日

十九  十字架の上からの説教

報いーリバイバル

 死を前にしてパウロ三木は、目の前にいる人々の救いを願っていました。彼の心は、自分自身の命の事ではなく、彼を殺そうとしている人々の救いにあったのです。 日本に、このような殉教者が、かっていたのです。 十字架につけられても、赦し続け、十字架の福音を語り続けた伝道者が。 日本に、必ずリバイバルが、やってきます。パウロ三木の語った御言葉は、決してむなしく、この長崎、そして日本に落ちることはないでしょう。これから始まる、この地での大いなる収穫のリバイバルの中で、主は報いてくださるのです。  今、生きている私たちを用いて。
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2018年08月17日

十九  十字架の上からの説教

十字架の上から赦しながら

 さらにパウロ三木は、死刑執行の責任者であり彼の旧友でも会った寺沢半三郎の方を見やり、さらに役人や執行人を見ながら、はっきりと、こう続けて語ったのです。「私は、私にとって死刑を命じた太閤様を、赦します。 半三郎を赦します。 役人を赦します。今まさに、ここにいる私をやりで殺そうとしている執行人を赦します。 なぜなら、イエス・キリストが、私の罪を十字架で赦してくださったからです。 イエス・キリストは、あなたの敵を愛し、迫害する者のために祈れと言われました。 ですから、この死罪について、太閤さまはじめお役人衆に、私は何の恨みも抱いてはおりません。ただ私の切に願いまするのは、太閤さまをはじめ、すべての日本人が、イエス・キリストを信じて救いを受け、キリシタンとおなりになることでございます」
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2018年08月13日

十九  十字架の上からの説教

十字架の上から赦しながら

 彼は、さらに続けて語ります。ますます激しさをを増しながら。「はばからずに申し上げます。確かに私はイエス・キリストを宣べ伝えました。そして、この理由で殺されるのを、わたしは喜んでおります。神さまから頂いた、この殉教の恵みを、心から神さまに感謝申し上げます。人が死に臨んで、どうして偽りを申しましょう。私は今、死に臨んで、真実のみを申し上げています。私の言うことを、どうか信じてください。この方イエス・キリストによるほか以外に 救いの道のございませぬことを確信をもって申し上げまする」人々は、パウロ三木の語る言葉に、引き寄せられて行きました。それほどの力強さと激しさが、パウロ三木の説教にはあったのです。
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2018年08月12日

十九  十字架の上からの説教

十字架の上から赦しながら

 イエズス会士の修道士(イルマン)パウロ三木は、京都で捕らえられてから、この度は西坂の丘に着くまで、人々に福音を語り続けていました。 そして最後の説教が、この十字架の上からの説教だったのです。彼の罪状書きには、こう書いてありました。「この者どもはフィリッピン、ルソンの使節と称し、日本に来たり・・・」それを見て、パウロ三木は、十字架の上で身を乗り出し、群衆を見据えて、大声で叫びました。「ここにおられるすべての方々、私の言うことをお聞きください」その声に、人々は思わずも耳をそばだてて聞き入ります。「私はフィリッピンから来たルソン人ではありません。れっきとした日本人でございます。そしてイエズス会の修道士でございます。私は何の罪も犯したわけではございません。ただイエス・キリストの福音を宣べ伝え、その教えを広めたという理由だけで殺されるのです」
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2018年08月11日

十九  十字架の上からの説教

「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(マタイの福音書5章44節)

 1597年2月5日、西坂の丘に26本の十字架が立ちました。26人の殉教者たちと共に。その中にいた12歳の少年ルドビゴ茨木と13歳のアントニオが、声を合わせて詩篇113篇を主に向かって高らかに賛美しました。「子らよ。主をほめたたえまつれ」と。 その銀の鈴のような声が、西坂の丘に響き渡ります。するとその声に合わせて、見物に来ていた4000人ともいわれている人々が、この少年たちに合わせて賛美し始めたのです。 そのとき、極悪犯罪人の処刑場だったこの場所に、天国が降りてきたのです。 主の深いご臨在が、その場を包んでいました。そのご臨在の中で、十字架の上から声を上げ説教を語り始める者がいました。 それが、パウロ三木でした。
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2018年08月10日

十八  西坂の丘ー自分の十字架を抱きしめた26人

西坂の丘に立つ26本の十字架

 26人を殺す刑執行鵜人たちが一人一人を十字架につけ始めました。手足と首を、まず鉄枷で止め、腰をひもで結んで、体を固定させ、ぴったりと十字架につけました。そして、掘ってあった穴の縁に、十字架の根元を当てて、徐々にすべらせ、ついに十字架は穴に立てられたのです。こうして一本一本、十字架が建てられていったのです。 殉教者たちとともに。 そして、ついに26本の十字架が、西坂の丘に立てられました。 26人の殉教者たちと共に。
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2018年08月08日

十八  西坂の丘ー自分の十字架を抱きしめた26人

 その26人の中で最年少の12歳の少年、ルドビゴ茨木がいました。 彼は佐賀唐津の山本村で寺沢半三郎の「養子になれ」との申し出を断って、神さまを選んで、喜んで、この殉教の丘である西坂の丘にきたのです。彼は、西坂の丘に着くと、そこにいた役人に聞きました。「私のかかる十字架は、どれですか」 役人は彼を見て、彼が一番小さな少年であることがわかると、「お前のかかる十字架は、ほらあそこにある一番小さいあの十字架だ」と指差しました。 するとルドビゴ少年は、にっこりとほほ笑んで、その十字架に駆け寄り、その一番小さな十字架を抱きしめて、ほおずりし、口づけしたのです。
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2018年08月07日

十七  西坂の丘ー自分の十字架を抱きしめた26人

「人若(も)し我に従(したが)はんと欲(ほつ)せば、己(おのれ)を捨て、十字架をとりて我(われ)に従(したご)ふべし」(マルコ伝8章34節)

 1597年2月5日、26人が殉教する日がやってきました。彼らは時津(とぎつ)の沖の小舟から陸にあげられると、すぐに歩き始め、途中、浦上のらい病院で短い休息の時間をとりました。短い休憩が終わったのち、役人のかん高い声が響きました。再び出発の命令が下ったのです。彼らは、西坂の丘を目指して歩き始めました。彼らが殉教する地に向かって、歩き始めました。 西坂の丘には、26個の穴が掘られていました。そして、その一つ一つの穴の前に、真新しい26の十字架が、一本ずつ置いてありました。


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2018年08月06日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

 私は、クリスチャンホームで 育てられました。また、私自身も、今では4人の男の子と 4人の女の子を持つ 8人の父親です。 ですから、この父子のやり取りを見ながら、特別な感動を覚えます。最後まで救霊に燃え続けていた19歳の青年ヨハネ五島、そして喜んでその息子を天に送り、自分も宣教に生き、殉教の備えをした父。たとえ、自分の愛する子を失うとしても、二人の間の愛と、主への信頼、信仰は崩れなかったのです。私も主に対する心を受け継いでいきたい。息子としても、父としても。そう思わずにはいられないのです。
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2018年08月05日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

父子の別れ

 自分が殉教しようとする時に、魂の救い、宣教のことを父に委ね願ったヨハネ五島。そして、それをしっかりと受け取って応答した父、彼らはともに、殉教を前にしても、宣教の事を考えていたのです。父は今、殉教を前にして魂の掬いのことを語る息子の信仰を見て、とても満足して喜んでいました。いままで祈りと愛をもって育んできた息子の信仰は、神の与えてくださった殉教という試練の中で開花したのです。 これは素晴らしい祝福でした。 この親子の心にあったのは、魂の掬い、宣教だったのです。 






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2018年08月04日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

父子の別れ

 ちょうどその時,ヨハネ五島のお父さんが、ちょうどそこへ、やがて死につく我が子に、最後の別れを告げにやってきたのです。ヨハネ五島は年老いた父の姿を見つけると、やにわに駆け寄り、しっかりと父と抱き合って、こう言いました。「お父上様、魂の救いよりも大切なものは何もありませぬ。この事を、よくお考えになってください。そして決して油断せず、怠らぬよう、くれぐれもお頼み申します」「ジュアンよ、その通りだ。決して怠りりはしないから、お前は元気いっぱい、力に満ちて、喜んで死んでいきなさい。お前は、神さまへの忠節のために死ぬのだから、父は喜んで、お前の死を見届けよう。私も、お前の母上も、必要とあらば、主が思し召しになる時に、神の愛のために、キリストさまに、この命をささげる覚悟も、用意もできています」この年老いた父は、愛する息子と抱き合い、言葉を交わすと、もう何も思い残すことはないと、足早に去っていきました。





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2018年08月03日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

浦上のらい病院

まず、はじめに修道士(イルマン)のパウロ三木が、パシオ神父の前にひざまずいて告白し始めました。しかし、後ろ手に縛られたままだったので、パウロ三木は帽子を脱げずに困っていました。それでパシオ神父は、パウロ三木の帽子をとってあげました。 それから続いて、ディエゴ喜斎と、ジュアン草庵ともいわれるヨハネ五島が、告白しました。この2人の告解が終わると、パシオ神父は、2人を正式にイエズス会に入会させました。この時ディエゴ喜斎65歳。殉教者の中で最年長でした。 一方、ヨハネ五島は、キリシタンの両親の下に生まれた弱冠19歳の青年でした。
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2018年08月01日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

浦上のらい病院

 京都から始まった彼らの旅は、もうまもなく終わろうとしていました。最後の夜を過ごした時津を後にして、夜明けとともに26人は、再び歩き始めました。処刑される殉教の場所の西坂の丘を目指して、彼らは歩いたのです。このころには、京都で切られた耳は血と泥に汚れ、 かさぶたができていました。 時津から歩きだした26人は、谷底を、縫うようにして、小道を歩きました。そして西坂に向かう途中、ほんのひと時浦上にあるらい病院で休憩をとったのです。 そこには、イエズス会のパシオ神父が、待っていました。彼は、3人のイエズス会士の告解を聞くために、会いに来ていたのです。
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2018年07月31日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

家族
  
 京都と大阪で捕らえられてから、一か月近くにわたった800キロの旅も、明日終わろうとしていました。彼らの体は、もうすっかり弱り果てていました。けれども彼らの心には、主イエス・キリストへの愛と、永遠の御国ー天国への確かな希望がありました。 彼らの主に対する信仰は、決して寒い凍(い)てつくようなこの夜も失われることなく、静かに、でも確かに燃え続けていたことでしょう。 そして、2月5日の夜明けが来ました。彼らの殉教する日が、やってきたのです。
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2018年07月30日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

家族

殉教者たちが育まれた、彼らの家族には、神の愛が注がれていました。主への信仰を中心とした、神の愛があったのです。彼らは、尊敬し、愛し合っていたのです しかも、主のためには、自らの命を捧げて、家族を主に委ねるほどの信仰でした。 また、たとえ家族の誰かを失っても、彼らは、主を信じ続けました。主を、愛し続けました。彼らは、天国で再会できることを知っていたからです。彼らは、この地上では旅人であり、寄留者であることを証ししたのです。 このような信仰の家族が、かって日本にあったのです。 これは驚きでもあり、希望でもあります。 主は再びこのような家族を、この国に起こし始めておられるのではないでしょうか。 終末のリバイバルに向けて、迫害と殉教の時代に備えて、主は、このような家族を、再び建て上げておられるのです。
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2018年07月29日

十七 最後まで魂の救いー宣教を求めて

家族

 私はある時、この時津の港に立って、しばらく祈り、主に聞きました。26人の殉教者たち、その中でもとりわけ、3人の少年たちが持っていた、主への信仰と天国への希望は。一体どこで育(はぐく)まれ、培われてきたのですかと。そのとき、主は答えを下さいました。「それは、家族である」と。
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2018年07月28日

十七最後まで魂の救いー宣教を求めて

「けれども、私が自分の走るべき工程を走りつくし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を果たし終えることができるなら、私の命は少しも惜しいとは思いません」(使徒の働き20章24節)

1597年2月4日、地上での最後の夜を26人の殉教者たちは、時津(とぎつ)の港で、明かそうとしていました。居心地悪い小さな小舟の中で、後ろ手に縛られながら、彼らは、 最後のゲッセマニの夜を、祈り明かしたことでしょう。 この時津の港に立って湾を眺めて祈っていると、彼らの息遣いが聞こえてくるような気がします。
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2018年07月24日

十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

ゲッセマネ

 ところが、殉教者たちが時津の岸壁についても、上陸は許されませんでした。 時津はキリシタンの町でした。護送役人たちは、キリシタンの人々が、殉教者を取り戻そうと暴動をおこしはしないかと恐れたのです。もちろん、そんな事をするわけはありませんが、護送役人たちは、自分たちの尺度で考えて恐れ、心配し、警戒して、上陸を許さなかったのです。 26人の殉教者たちは、後ろ手に縛られたまま、いこごちの悪い舟の中で、その夜を明かさねばなりませんでした。殉教者たちは、寒風が吹きすさぶ中、夜露に濡れながら、この夜は、ほとんど眠らないまま過ごしたようです。 しかもこの夜は、ことのほか寒さが厳しかったので、殉教者たちは、体をを寄せ合って祈り合いながら、暖を取り、この地上での最後の夜を過ごしたと言われています。 彼らにとって、この夜はまさにゲッセマネとなりました。 そして、彼らにとってゲッセマネとなった2月4日の冬の夜が、やがて明けようとしていました。
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2018年07月23日

十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

時津へ

 26人たちの殉教者たちは、彼杵の港から3隻の舟に乗せられて、時津へと向かいました。2月4日、夕刻の6時頃だと言われています。 ペテロ・バプチスタ神父をはじめとする、6人の外国人神父以外は全員、首に縄をかけられ、その縄で両手を後ろ手に縛られていました。そしてなんの覆いもない3隻の小舟の上に26人は分乗うさせられて、凍てつくような夜の海を対岸の時津まで送られたのです。 彼杵を出た舟は、冷たい潮風にさらされながら、夜の11時ころに時津に着きました。 この時、26人の殉教者たちは、彼らの地上での最後の夜を迎えようとしていたのです。
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2018年07月22日

十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

赦しと和解

 その26人の殉教者たちは、峠を降りて彼杵の港に着きました。そこで彼らは、イエズス会のヨハネ・ロドリゲス神父とパシオ神父に会うのです。 実はイエズス会とフランシスコ会の間には、宣教の考え方や、やり方にずいぶん違いがありました。共にイエス・キリストを宣べ伝えていきたいと強く願っていましたが、時として二つの会の間で意見が激しくぶつかり合うこともあったのです。 それでこの時、ペテロ・バプチスタ神父はフランシスコ会士を代表して、イエズス会の神父である彼に、謝罪と和解をいいました。「私たちは間もなく、死出の旅路に着きますが、今までにイエズス会の神父の方々に、ずいぶんとご迷惑をかけたことと存じますが、どうか、その一切をお赦しください」と、するとそれに対して、ロドリゲス神父も、「私たちもまた、イエズス会の名において、フランシスコ会の方々に、あなたと同じことをお願いし、おわびいたします」と語り、二人はお互いを許し合って、そこで固く抱きしめ合ったのです。
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2018年07月21日

十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物を捧げなさい」(マタイ福音書5章24節)

殉教への旅の中で、最も険しい俵坂峠を越えたところで、日本の将来を思って涙を流したペテロ・バプチスタ神父、 その涙の祈りの答えが私たちなのです。
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posted by 日本教会史 at 02:59| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする