2018年04月22日

四十四  浦上四番崩れ8ー孤児院

 孤児のための働き

   「孤児たちを泣かすな」と言った弟の言葉を思い起こしながら、マツはマキやほかの娘たちと相談して、孤児を育てることにしました。マキやマツたちは、孤児を育てることが天職と考えました。 ド・ロ神父もこのことを聞くと、心の底から大喜びして、フランスでの孤児院のやり方にまねて、具体的にいろいろと教え、経済的な助けもしました。  

 マキたちの共同生活は、初めからただの休憩所ではありませんでしたが、こうしてやがて「十字会」と名付けられて 準修道会となります。
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2018年04月21日

四十四  浦上四番崩れ8ー孤児院

  孤児のための働き

  守山マツは津和野に流されていた時、殉教していった弟の裕次郎が臨終するときに言い残していった言葉を忘れたことはありませんでした。裕次郎は姉のマツに手当てをしてもらいながら、兄の勘三郎の手を握って、最後に、こう言って天に帰っていったのです。「おら、もうじき天主様から召される如(ごと)ある 兄と姉は生きながらえて浦上に帰れるごとあるばい。その時にはキリシタン法度の高札は取られ、大声で祈りができるに違いなか。浦上に帰ったら、一人は結婚して、その子の一人ば神父様にしてくれるやろ。やっぱり教理をよう知っとらんと、信仰も弱かけん。子どもば泣かせなさんな。子どもばなかせなさんな、子どもばかわいがってくれよ・・・」
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2018年04月20日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

 孤児のための働き

  赤痢が下火になったころ、台風が襲い、大暴風が浦上のバラックを吹き飛ばしていきました。それが片付いたと思ったら、今度は港の入り口の島々(蔭の尾島)に天然痘がはやりました。病気を恐れて、家族の者さえ、患者を見捨てて逃げるほどでした。村にも町にも、親を疫病で奪われた孤児たちの姿がちらほら見えました。  天然痘の看護も収まって、浦上に帰ってきたマキの腕の中に、一人の赤ん坊が抱かれていました。名はタケと言います。  天然痘で両親が死んだ孤児でした。それまで蔭の尾島にあった「孤児院」が閉鎖されたので連れてきたのです。  孤児はタケだけではありませんでした。当時、日本では各地で捨て子が多くいました。長崎でも相次ぐ災難で、孤児や捨て子は、次々に出ていました。
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2018年04月19日

四十四  浦上四番崩れ8ー孤児院

 ド・ロ神父と篤志看護婦

  篤志看護婦となったこの4人の娘たちは、神父から看護法を教えてもらい、恐ろしい伝染病がはやっている町々村々を回り、大勢の人を助けました。
ド・ロ神父は毎夜、大浦天主堂に戻りました。  マキたちは家に帰ると家族に伝染させる心配があったので、どこかに合宿することにしました。そのとき高木仙右衛門が自分の小屋を提供しました。そこで4人は共同生活をはじめました。夜遅く合宿しているこの部屋に帰ってきても、そこには、ござと板の上に敷いた布団が一枚あるばかりでした。食器は茶碗がたった一つ、何か飲めるものを作って、その茶碗で娘たちは回し飲みをしました。  そして、
心を合わせて一心に祈ったのです。神父は娘たちに医学を教えただけではなく、祈りを教え、聖書のみ言葉を教えることにも力をいれました。
 こうして、次第に修道会の生活に近づいていきました。
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2018年04月18日

四十四  浦上四番崩れ8ー孤児院

 ド・ロ神父と篤志看護婦

  浦上村民の窮状を見たド・ロ神父は、毎朝4キロ余りの道を、薬箱を下げて大浦か浦上に通い、病人の診察投薬に従事しながら、予防措置を教えて回りました。  ド・ロ神父は、ただ脈をとり、薬を与えるだけではなく、患者の一人一人に神の言葉を語って、慰めはげましたのです。 この救援活動を見て心を動かされ、すぐにその案内と手伝い、患者の身の回りの世話を申し出たのが岩永マキでした。マキが動いたのを見ると、ほかにも守山マツ、片岡ワイ、深堀ワサという女性たちが共に立ち上がりました。

彼女たちは皆、「旅」の中で迫害を受け、拷問にかけられて辛酸をなめてきた人たちでした。
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2018年04月17日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

 浦上を襲う天災

     キリシタンたちが、浦上に帰ってきた翌年の1874年夏、まず赤痢が流行します。 そこへ追い打ちをかけるように8月21日台風が来襲し、 長崎は大被害を受けます。前年建てたばかりの浦上のバラック長屋は、総倒れとなり、昔からあった家も含めて、全戸数の半分は倒壊しました。 一年間かけて辛苦の中で育てた農作物は、風に吹きちぎられ、収穫は皆無となりました。米価は暴騰し、食べ物にも困った浦上農民に、赤痢はますます広がりました。  そして浦上だけでも210人の患者が出ました。

しかし。この悪条件の中で、赤痢という恐ろしい疫病を210人の患者で食い止め、8人の死者にとどめたのは、ド・ロ神父と彼を助けた岩永マキら篤志看護婦の献身があったからです。
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2018年04月16日

四十三 浦上四番崩れ7−天災

 浦上を覆う天災
  
  キリシタンたちが浦上に帰ってきたとき、浦上の地は荒れ果てていました。浦上四番崩れから帰ってきた人の中で、原子爆弾が落とされた後も生き残った老人が10人ばかりいました。原子野に翌年雑草が一面に茂ったのを見て、流罪から帰った時によく似ていると言いました。 彼らには本当に何もなかったのです。あばら家に住みつつ、港に行って皿のかけらを拾い、それで荒れ果てた畑を耕しました。近くの村に日雇いに出て、イモやキュウリの苗をもらいながら、働き始めました。 
  こうして一年が過ぎ、やっと畑からいくばくかの実りが収穫され、生活もようやく一息つき、落ち着いたと思ったところへ、疫病や天災が折り重なって、浦上を襲ったのです。
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2018年04月15日

四十三 浦上四番崩れ7−天災

 大声でオラショできる

  彼らの生活は極貧を極めました。けれども、彼らのうちにある喜びは、その貧しさによっては、決して消すことのできないものでした。  彼らは、毎日毎日大声で祈ったのです。  主イエスに感謝しながらオラショをささげました。 日曜日には、大浦天主堂に行って、ミサにあずかりました。  8キロばかりあるのですが、彼らは少しも遠いとは思いませんでした。  
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2018年04月13日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

 大声でオラショができる


   流されていた3394人のうち1900人が、ついに浦上に帰ってきたのです。   しかし、そのうち736人には、家がありませんでした。「旅」の間に壊されていたのです。残りの1164人には家はあったのですが、家とは名ばかりの、壁も瓦も落ちたあばら家になっていました。もちろん畳や建具などは、全くありませんでした。   そこで、家なしの人のために竹の久保の官有林から切り出した木材で、一人当たり一坪の3,4軒続きのバラック長屋を建てて、とにかく落ち着かせることになりました。

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2018年04月12日

四十三 浦上四番崩れ7−天災


  キリストへの信仰を捨てない。ただそれだけの理由で「一村総流罪」(いっそんそうるざい)となり、西日本諸藩に流された浦上キリシタンたち。   しかし主は、彼らが示したキリストへの愛を忘れず、彼らの主イエス・キリストへの従順を通して、キリストに対して全く心が閉ざされていたこの国に、信仰の自由を与えてくださいました。   1873年3月14日、ついに彼らは流配(るはい)地から浦上に帰ってきたのです。

 彼らのキリストへの信仰が、日本のかたくなな政府に勝利したのです。   


 しかしその時には、613人はすでに流された地で殉教し、亡くなっていました。  また6年余りにわたってなされた残酷な拷問の中で、1011人は転んでしまったのです。  この数字を見ても、彼らへの迫害がどんなに厳しく残酷だったかがしのばれます。彼らの大部分は帰郷後、再び元の信仰へ戻りました。
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2018年04月11日

四十二 浦上四番崩れ6−信仰の自由

 信仰の自由

   さすがに、こんな異国の地で浦上の名を聞こうとは思ってもいなかったので、最初は日本の内政問題であると突っぱねていた岩倉大使を中心とする使節団も、キリシタン邪教政策を修正せざるを得なくなったのです。  そして1873年2月24日、キリシタン禁制の高札は撤去されたのです。

ここに、1614年より始まったキリシタン禁制は262年ぶりに効力を失い、日本にキリストを信じる信仰の自由が与えられたのです。

3月14日、各地に流されていた浦上のキリシタンたちは、釈放され帰村することになったのです。
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2018年04月10日

四十二 浦上四番崩れ6−信仰の自由

 信仰の自由


   ちょうどそのような時、1971年12月24日に、岩倉具視を全権大使とする一行が、アメリカからヨーロッパ各国へ、不平等条約改正の交渉のために行きました。  欧米のどこの国でも、必ずキリシタン迫害の事が持ち出され「キリシタンを迫害するとは野蛮国である」と厳しく詰め寄られ、信仰の自由を条約に記すようにと、非常に強く迫られました。特にベルギーのブリュッセルでは、市民たちが大使らの馬車に押し寄せて、浦上キリシタンの釈放を叫び、「流されている浦上キリシタンを牢から出せ」と言ってやめませんでした。
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2018年04月08日

四十二  浦上四番崩れ60−信仰の自由

 信仰の自由

   各地に流された浦上のキリシタンたちは、津和野と同じように厳しい迫害の中で、主にすがり、聖霊様の助けを受けながら耐え忍んでいました。彼らの頭には、キリストを信じる信仰を、命をかけても守ろうという思いしかなかったことでしょう。 しかし、そのことは彼らの知らないところで「信仰の自由」という世界的な問題となっていたのです。  日本は、この迫害のゆえに諸外国から抗議を受けていました。流されたキリシタンたちに対する拷問は、外国使節団の耳に入り、諸外国の新聞や雑誌で報道され、批判され、どこの国でもわき返るような世論となっていました。
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四十二  浦上四番崩れ60−信仰自由

 こどもの単純な信仰

  またある時は、肥くみに来た近くの農民たちが、子どもを喜ばせようとして、鳴くセミを捕まえて子どもたちのいる牢に投げ込むと、子どもたちは大喜びでそれを捕まえると、泣かせて楽しむどころか、そのまま口に入れて、ばりばり食べてしまうのです。   子どもたちは、そんなにも飢えていましたが、信仰に堅くたっている母にくっついて信仰を守り通しました。
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2018年04月07日

四十二  浦上四番崩れ6−信仰の自分の自由

 子供の単純な信仰

  ある日、3歳の子どもがひとりで裁判に呼び出されました。  役人はおいしそうなお菓子をみせびらかし、「キリシタンをやめたらみんなこのお菓子をあげるよ」と言って誘惑しました。子どもは頭を横に強く振りました。「どうして?このお菓子とってもおいしいんだよ」と役人が言うと、子どもは「お母がね、キリシタンば捨てないとハライソ(天国)へ行ける、言うたもん。ハライソへ行けばね、そげんお菓子より、もっともっと甘か物あると・・・」と答えました。  ハライソへ行ける、というのがただひとつの望みであり、最も大きな喜びだったのです。子供の信仰は、このような単純なものでした。  しかし単純だからこそ、余計に堅かったといえるでしょう。
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2018年04月06日

四十一 浦上四番崩れ5−津和野の拷問

 空腹の中で

   絶えず腹を減らされ、仕事もさせられず,大勢狭い部屋に詰め込まれて、ふた月も同じ説教を聞かされると、次第に望みも薄くなり、体も弱り、頭も変になって、ついテング(悪魔)の誘惑に乗ってキリストへの信仰を捨てる気なってしまうので、彼らにとってはこれほど恐ろしい効き目のある責め苦はないのです。  こういう責め苦に遭うと、男より女のほうが強く、かえって女から男が励まされていました。  子どもは母の教えた通りにします。  こういうう大きな迫害の中では、主婦がしっかりしていた家族だけが、最後まで信仰を守り通しました。

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2018年04月05日

si 四十一 浦上四番崩れ5−津和野の拷問

 空腹の中で
  さらに津和野には、 先に流されてきた28人の家族の125人が、 2月の初めに着きました。  もう役人たちは、説教だけでは転宗させることができないと分かっていたので、空腹の責め苦に掛けました。1日に米1合3勺、味噌を親指の大きさほど、塩ひとつかみ、水一杯、ちり紙1枚ずつを与えました。 母親は自分の食べる物も子供に与えるので、見る見るやせていきます。そしてその弱り果てた体を裁判に引き出して、キリシタンをやめろと手を替え品を替え、繰り返し責め立てます。
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2018年04月04日

四十一 浦上四番崩れ5−津和野の拷問

 氷責め
  それで警護の役人が「早く上がれ」とふたりにいいましたが、「今、宝の山に登りておるからは、この池より上がられん」と甚三郎が答えたので、役人は5メートルばかりの竹の先に鉤(かぎ)を付け、鉤の先に髪の毛を巻き付け、力任せに引き寄せて、氷の中より二人を引き上げました。 柴束2つをたき付けとして枯れ木を立てて燃やし、ふたりの体を6人で抱えてその火にあぶり、ぬくめ入れ、気付けを飲ませて正気つかせました。「その時の苦しさは何とも申されぬ」と甚三郎は手記に書いています。  仙右衛門は体中がうずき、次に悪寒と戦慄(せんりつ)が来て、歯も抜けるかと思いましたが、2,3日たつと不思議なことに、もともとかかっていた熱病まで治っていたのです。
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2018年04月03日

四十一 浦上四番崩れ5−津和野の拷問


氷責め
 すると氷は、みしみしと破れ、ふたりは氷の下を泳ぎ回りましたが、深くて背が届かず、やっとの思いで池の真ん中に浅い瀬を見つけて足先で立ち、破れた氷の上に頭を出して苦しい息をしました。  その時、役人が「仙右衛門、甚三郎、天主が見ゆるか。さあどうじゃ」とあざけりました。そして、水を何度もくんで顔に投げ付け、息ができないようにしました。 それよりだんだん体は冷え凍り、震えが来、歯はがちがち鳴り出しました。 その時、仙右衛門は甚三郎に言いました。「甚三郎、覚悟はいいか。私は目が見えぬ。世界がくるくる回る。どうぞ私に気を付けて下され」 もはや息が切れようとする時に、役人が「早く上げろ」と言いつけました。
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2018年04月02日

四十一 浦上四番崩れ5−津和野の拷問

氷責め
  冬のある日、仙右エ門と甚三郎は朝から呼び出されました。彼らはどんなに説教されても信仰を捨てません。それで氷責めに掛けられました。  その時津和野では、雪がひと月以上降り続き、60センチ以上も積もっていました。池にも厚い氷が張っていました。その池の縁に、4斗おけを2つ並べ、柄長ひしゃくで2人の裁判の役人や警護の役人5,6人が彼らを引き出し「外国の宗教を信ずる者は、日本でできたものは身につけてはならぬ」と言って、ちょんまげの頭に巻いてある かみのこよりも切りのけ、着物もふんどしも取りのけ、真っ裸にして氷の張った池の上に二人を突き落としました。
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四十一 浦上四番崩れ5ー津和野の拷問

氷責め

 冬のある日、仙右エ門



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2018年04月01日

四十 浦上四番崩れ4一村総流罪 津和野での拷問

 転宗した者は別の場所に移され、腹いっぱいになるまで食べ、仕事に出ることも許されました。そこへ、まだ転ばない者たちを3,4人ずつ連れてきて「お前もただお上の言いつけに従って西洋の神を捨てれば、今のこの地獄からあのような極楽に移れるのだ」と誘惑するするのです。 それでも転ばぬ者たちは三尺牢(さんじゃくろう)に入れられました。三尺牢は90センチ立方のの箱で、前は6センチ角の柱を3センチおきに打った格好になっており、天井に食事などを入れる穴が一つあるばかり、ほかはすべて厚さ4センチの松板で固くできていました。体を曲げてやっと入っていられる狭さでした。
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2018年03月31日

四十 浦上四番崩れ4一村総流罪 津和野での拷問

 今度は神主の佐伯という人が説得にかかりましたが、信者は全く感心しません。そこでしかたなく、拷問を加えることに方針を変えました。畳をはぎ取り、食事には一日米3合、塩ひとつまみと水、むしろとちり紙一枚をあてがいました。着物は捕らわれた日に着ていた物があるだけでした。板敷きの上に、みんなで抱き合って寝ましたが、冬の津和野はあまりに寒くて眠れません。とうとう16人は耐え切れずに転宗を申し出ました。
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2018年03月30日

四十 浦上四番崩れ4一村総流罪 「津和野での拷問」

この旅のなかで、特に迫害が厳しかった津和野のことを、少しだけ書いておきます。 仙右エ門や甚三郎は、津和野に流されました。初めは毎日お寺のお坊さんが来て説教をし、転宗を迫りました。こうして半年が過ぎました。
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2018年03月29日

四十 浦上四番崩れ4一村総流罪

 彼らは信仰を守り通すため、全国21藩に流配され、6年有余の長い間、飢え渇きながら数々の拷問の苦しみに耐え、ついに1873(明治6年)、キリシタン禁令の高札が撤去され、荒れ果てた浦上に帰ってくるのです。
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