2019年11月09日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

領事たちは「日本が宗教を許さないということは、野蛮国であるという証拠であり、この度の事件が本国へ報告されたならば、日本の立場は非常に悪くなるでしょう」と注意しました。しかし奉行は「これは純粋な内政問題なので 外国の指図を受けるものではない。ことに200年来も守られてきたキリシタン禁教命令の法令を止めることは幕府だけがすることで、地方の問題ではないから、どうか江戸幕府へ談判して欲しいです」と答えました。
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三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

その日(7月15日)の午前11時プロシア領事が、翌16日には フランス領事レックスが、その翌17日は、ポルトガル領事ロイレロが奉行所を訪ね、抗議しました。その数日後に来埼したアメリカ公使ワルケンブルグも奉行所に抗議し、牢内にいる信徒たちを見舞いました。大国アメリカの全権公使が、農民信徒たちを懇切に慰問したことは、長崎奉行所をずいぶん驚かせたようです。
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2019年11月08日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

浦上四番崩れ
1867年7月15日の早朝3時ごろ、大雨をついて安藤弥之助の指揮する捕手たちが、数隊に分かれて浦上の秘密聖堂や主だった信者の家を襲い、踏み込みました。秘密聖堂は散々荒らされ68人が捕らえられて桜町牢に入れられました。これが「浦上四番崩れ」と言われている大迫害の発端です。
こうして浦上で、再び迫害が始まったのです。キリシタンであるという信仰の理由だけで、このような捕縛投獄が行われたことは、居留外国人たちに、大きな衝動を与えました。そしてこの事件は、その日のうちに外交問題となりました。
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2019年11月07日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

庄屋があわてたのも無理はありません。「それでは聖徳寺との縁を切りたいものの名簿を出せ」といったところ、本原郷400戸 家野郷100戸あまり、中之郷100戸というように、元来の仏教徒と裕福ではあるが信仰心のうすかったキリシタン30戸だけを除いて、村民のほとんど全部が名を連ねたのです。これで、ついに浦上村の人々がキリシタンであることが、明るみに出たのです。そこで長崎奉行所では、たくさんの間者を浦上に潜入させ名簿を作り、主だった指導者たちのことや4ヶ所の秘密聖堂の坪数、間取りまで詳しく調べさせていました。
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2019年11月06日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題


翌6日、平の宿の久蔵が死んだときには、聖徳寺にも知らせずに自葬してしまいました。それを知った聖徳寺が、庄屋に訴え出て問題になってしまいます。その問題になっている真っ最中の4月14日、平の三八の母たかが死にました。今度は庄屋が気を利かせて坊さんを連れてきましたが、家の者が承知しないで、お経を上げるのを断り、自葬しました。庄屋は「今の坊さんが嫌いなら、お坊さんを代えてやる」と言いましたが「どなたであろうと坊さんは要らないのです。お寺とは縁を切りたいのです」と答えました。これは大変なことでした。なぜなら死人が出た時、坊さんを呼んでお経を上げるというのは、祖法(徳川家康、秀忠、家光三代の間に決まった背くことの出来ない大事なおきて)だったのに、それを「嫌です」と言ったのですから
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2019年11月05日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

自葬問題
当時は、死人があると必ず檀那寺(だんなでら)の坊さんを招いて読経を頼み、坊さんの立会いのもとで納棺することになっていました。しかし神父から指導を受けるようになると、このような表面仏教という態度を精算しなければいけなくなったのです。1867年4月5日、本原郷の茂吉が死んだとき、これまで通り聖徳寺の坊さんを呼んできましたが、使いの者が途中で、わざとつまらぬことを言って坊さんを怒らせたので坊さんは帰ってしまいました。これで幸いと、茂吉の家では坊さんなしで自葬してしまったのです。
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2019年11月04日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

役人の目を盗んで
プチジャン神父は、ちぢれ髪やひげをそり落とし、シュロの毛を黒く染めて作ったかつらをかぶります。そして日本の農民の着物を着て、わらじをはいて角帯を締め 手ぬぐいを法被りしてほおかぶりして日本人に化けるのです。そうやって、夜中に山の中の小道を案内されたり、小舟に乗せられたりして、村や島々を回りました。一方では、大浦天主堂の屋根裏部屋に、村々の代表や青年たちを集めて、いろいろと教えました。そして伝道士として村へ帰しました。こうして彼らの信仰は、日ごとに強められ、燃やされていったのです。
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2019年11月03日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

役人の目を盗んで
それでも信者たちは、役人の目を盗んでは、夜となく昼となく、天主堂に入り込んでオラショを唱え、神父たちと話をするのでした。それが役人の目にあまりひどく映ると、新しい迫害が起こるかもしれません。そこでプチジャン神父は信者たちに、天主堂に来るのを遠慮するように言い、自分の方から出て行って信者たちの代表と会うことにしました。また信者の隠れている村々や島々ヘも出かけることにしたのです。
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2019年10月31日

三十六 キリシタンの復活3−自葬問題 

7代250年間待ち続けていた神父が、ついにやって来たのです。イザベリナゆりたちがフランス寺で会った 異人がその神父がであるということは、その日のうちに浦上中に知れわたり、浦上の全村民が知るところとなりました。すると、その翌日から、浦上の信者たちは続々と、早朝から天主堂へ来るようになりました。しかし、日本はまだ、厳重な禁教下にあったので、役人たちの警戒もまた、教に厳しくなりました。
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2019年10月30日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

彼らが、さらに神父に質問しようとすると、ほかの日本人が、天主堂に入ってきました。その途端、神父の周りにいた彼らは、たちまちぱっと八方に散り散りになりましたが、すぐまた帰って来て「今の人たちも村のもので私たちと同じ心でございます。ご心配いりません」と申しました。こうして、浦上のキリシタンが、発見されたのです。そして、それに引き続いて、長崎県だけでも数万人ものキリシタンたちが潜伏していることが、明らかになりました。1614年1月の大禁教令から251年にわたる、激しい迫害と殉教の期間を潜伏し続けたキリシタンは、ついに復活したのです。これは他国に類を見ない出来事として、世界宗教史上でも注目されています。
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2019年10月29日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

確かに彼らは、イエス・キリストを信じて、神父の来るのを250年間待ち続けていたのです。彼らの中の1人が、さらに申しました。「御主(ゼズス)さまは・・・33歳の時、私たちの魂の救い十字架にかかって、お果てになりました。ただ今、私たちは『悲しみ節』にいます。あなたさまも『悲しみ節』を守りますか」「そうです。私たちも守ります。今日は『悲しみ節』の17日目です」神父は、「悲しみ節」という言葉をもって「四旬節」(復活祭前の40日)を言いたいのだと悟ったのです。悲しみ節の期間、迫害下の潜伏の中でキリシタンたちは、断食と祈りを守り続けてきたのです。
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2019年10月28日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見
この言葉を耳にした時のプチジャン神父の驚きと喜びは、今の私たちには、到底察し得ないでしょう。この時、250年にわたって地下に潜伏していた日本のキリシタンたちが、再び復活したのです。驚きながら立ち上がろうとする神父に、その婦人は畳みかけるように聞きました。「サンタ・マリアのご像はどこ」神父が聖母像の前に案内すると、みんなが集まってきて「本当にサンタ・マリアさまだよ。御子ゼズスさまを抱いていらっしゃる」と言うのでした。プロテスタントの牧師である私は、彼らがマリア像を探していたことに、つまづきを覚えていました。ところが先日、ある神父の方が、こう言われるのを聞きました。「みな、『サンタ・マリアのご像はどこ』という言葉ばかり強調する。でも大切なことは、彼らはこのご像の前に来て、御子ゼズスさまを探していたことです。彼らはイエスさまを探していたのです。そのことを忘れてはならない」

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2019年10月27日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見
プチジャン神父が、祭壇の前でひざまずいて祈っていると、天主堂の中にも窓の外にも、役人らしい人影がいないのを確かめてから、彼らの中の3人の婦人が、プチジャン神父に近づいてきました。そして、その中の一人のイザベリナゆりが、自分の胸に手を当てて、神父の耳元にささやいたのです。「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ (ここにおります私たちは皆、あなた様と同じ心でございます。)」神父は驚いて聞き返しました。「本当ですか。どこのお方です。あなたがたは」「私たちはみな、浦上の者でございます。浦上ではほとんど皆、私たちと同じ心を持っております」
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2019年10月26日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見
1865年3月17日、金曜日の昼下がり、フランス寺の前に十数名の男女の農民がやって来ました。フランス寺の扉は鍵が掛けられてしまっていました。彼らには、フランス式の掛け金の開け方が分からないのでがちゃがちゃとさせていると、プチジャン神父が急いでやって来て開けてくれたのです。神父が聖所の方に進んで行くと、この十数名の参観人の一行は物珍し気に、きょろきょろしながら後ろからついて堂内に入って行きました。
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2019年10月24日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

けれども、神父はあきらめませんでした。きっと、長崎にはまだキリシタンたちが残っているに違いないと信じて、彼らと会える日を待ち望んでいたのです。それで、プチジャン神父は、長崎ばかりではなく、その郊外辺りにも、たびたび出かけて、キリシタンらしい人はいないか、キリシタンらしき家はないかと訪ねて歩いたのです。ある時は、子供にお菓子を与えて、食べる時に十字を切りはしないかと気を付けてみたり、とにかく、色々とやってみましたがみんな当てが外れて、信者らしい人とであえませんでした。
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2019年10月23日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

献堂式の日には、日本人は誰も姿を見せませんでした。フランス領事から長崎奉行に案内状は出されていましたが、下役が代理として来ただけでした。それで、彼らは大いにがっかりしてしまいました。
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2019年10月22日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

1865年2月19日、フランス寺と呼ばれていた大浦天主堂の献堂が行われました。プチジャン神父は、ひそかに期待していたことがありました。それは、きっと昔からのキリシタンが、長崎に残っていて、天主堂ができれば、すぐにでも名乗り出てくるだろうと楽しみにしていたのです。
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2019年10月21日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

大浦天主堂ーフランス寺
1863年、フランス人のフユーレ神父は、大浦の南山手に天主堂がを建てるための工事に着工します。フユーレ神父は、その翌年に帰国しますが、代わりに赴任したプチジャン神父は、日本人を使って、日本の材料で工事を進め、ついに1864年12月29日に落成し、翌1865年2月19日に献堂します。この天主堂は、北に向かって、日本二十六聖人が殉教した西坂に向かって真向かいに建てられているので日本二十六聖人教会、あるいは二十六聖人殉教者堂と名付けられました。しかし町の人々は、当時フランス寺と呼んでいました。今は地名にちなんで大浦天主堂と一般に言われています。この大浦天主堂で、浦上信徒の発見がなされたのです。
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2019年10月20日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

鎖国破れる
1853年日本人ペルーが浦賀にやって来て、鎖国を続けていた日本は、外から力によって、目を覚まされることになります。そして5年後の1858年(安政5年)、日本はアメリカ、オランダ、、ロシア、イギリス、フランスと修好条約を結び、長崎港などの5港が開港されます。その結果、外国人居留地ができるようになりました。ここに、ついに、200余年にわたって続いた日本の鎖国は破れたのです。この修好条約の中には「居留民(外国人)は自国の宗教を自由に信仰いたし、その居留の場所へ、寺社(自分の宗教の礼拝堂)を建てたるも妨げなし」と書かれていました。これによって、今まで禁止されていたキリスト教信仰が、外国人居留者に限って公認されたのです。こうしてこの結果、長崎市にも天主堂が建てられることになりました。
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2019年10月18日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

実際に、1867年に始まった「浦上四番崩れ」と、それに続いてった大村領木場の三番崩れ、悲惨極まる五島崩れ、外海や伊王島、蔭の尾島、大山、善長谷などの離島へき地にまで及んだ残酷な迫害の中で、殉教する者たちも出ました。キリストへの信仰の自由を勝ち取るために、どうしても、このような厳しい季節を、忍びながら通過しなければならなかったのです。
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2019年10月17日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

しかし、彼らが信じて待ち続けた、大声でキリシタンの歌を歌って歩ける喜びを得るためには、もうしばらくの時と、迫害と殉教という困難と試練が必要だったのです。この国が鎖国を解き、250年以上も続けたキリシタン弾圧と迫害を止めて、キリストを信じる信仰の自由を得るためには、再び殉教の血が、流されなければなりませんでした。
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2019年10月16日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

7代250年間、バスチャンが残した予告預言を握って、コンヘソーロがやって来ることを信じていました。待ち続けた続けた浦上のキリシタンたち。その予告通りに、7代目に当たる幕末に黒船がやって来て、大浦天主堂が建ち、神父が来て、キリシタンの復活が起こるのです。
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2019年10月15日

三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの4つの予告預言

また長崎港の近くに善長谷というカトリック信者の村がありました。ここはもともとは禅定谷と言いましたが、佐八という水方が引率して家族と2人の独身者が移住してきたのです。佐八は臨終の時、各戸の家頭を枕元に集め、諭して言いました。「やがて黒船に乗ってくる人と一つになれ」と。このように「7代たったらコンヘソーロがやってってくる」という預言の言葉は、潜伏しているキリシタンたちにとって、とても大きな希望となっていたのです。そして、その預言の通りに、7代目に当たる幕末に黒船がやって来、キリシタンの復活が起こるのです。
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2019年10月14日

三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの4つの予告預言

外海の形右衛門
ところがある日、大きな黒船がやってきたと言って人々が騒いでいるのです。彼は小高い丘に登って、そのところを打ち眺めました。「これじゃ。これがバスチャンさまの預言の黒船じゃ。、じゃが、わしはコンヘソーロに会うて、コンヒサンを申すまでは生きておらぬ」そう言って、彼は涙をこぼしたのです。
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2019年10月13日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

7代250年間、、バスチャンが残した予告預言を握って、コンヘソーロがやって来ることを信じて待ち続けていた浦上のキリシタンた
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