2017年01月25日

過酷な拷問G


それで、これから拷問を受けようとしていた5人もすっかり気を落としてしまい、
残っていた人たちもみんな
爪印を押してしまったのです。
ただひとり、
高木仙右衛門だけを残して。
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2016年04月13日

キリスト教邪教観D


政府へ抗議して来られ、政府は困って、

一、切支丹宗門之儀は、是迄御制禁の通り、
  固く相守るべく候事。

二、邪宗門之儀は固く禁じ之事。
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2016年03月06日

浦上四番崩れC

わった明治新政府は
神道を中心に天皇政治を目指したため、
キリシタンに対しては迫害の手をゆるめるどころか、
ますます厳しくなりました。
そのため、キリシタンへの迫害と弾圧は外交上の問題となりました。
明治6年、すなたち1873年になってやっとこの問題は解決し、
キリストを信じることが認められたのです。
しかしそのためには
「浦上四番崩れと言われている明治政府による
キリシタン弾圧の中での
厳しい迫害と殉教を通過しなければならなかったのです。

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2016年02月01日

宣教F

異邦人伝道に召されていたパウロが
「私の同胞のためには、
呪われた者となることさえ願いたい」
(ローマ9章3節)
といった同じスピリットを彼らも持っていたのです。

殉教ブログ.jpg
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2015年09月24日

殉教

1597年2月5日(水)、ついに26聖人が殉教する日が来たのです。

Wednesday, February 5th, 1597, the day 26 Saints of Martyrs were supposed to be martyred was finally here.  

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京都から始まった彼らの旅は、もうまもなく終わろうとしていました。最後の夜をすごした時津をあとにして、夜明けとともに彼らは歩き始めました。処刑場の西坂の丘を目ざして歩いたのです。


Wednesday, February 5th, 1597, the day 26 Saints of Martyrs were supposed to be martyred was finally here.  

Their journey which started from Kyoto would be over soon. Leaving Togitsu they spent their last night on the earth, they started to walk as soon as the day broke. They were on and on walking toward the hill of Nishizaka, the place of execution.

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2015年07月14日

キリスト教邪教観B

五榜の掲示の第三札には
次のように書かれていました。
一、切支丹邪宗門之儀は堅く御禁制たり。
若不審なる者之有れば、その筋之役所に申出可、
御褒美下さる可事。
        慶応四年三月    太政官
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2015年01月19日

二十六聖人の殉教B

ところが秀吉の思惑とは逆に、26聖人の殉教の後に長崎にリバイバルが起こりました。西坂の丘に集まった多くの見物人たちは、26聖人たちが喜びに満ちて天に帰っていく姿に感動しました。クリスチャンはもとより、どっちつかずで信仰がはっきりしていなかった人々や、信仰をそのときまではもっていなかった人までもが回心し、「私もクリスチャンです。どうぞ殺してください。」
と代官所に押しかけて行きました。
この後、26万人が殉教したと言われています。

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2015年01月12日

浦上四番崩れー悲しみを喜びに

主は彼らの涙を覚えておられ、迫害と殉教という火の試練を通した後に、
彼らの悲しみを喜びに変えられたのです。
 主は真実なお方です。そして主は正しく裁いてくださるお方です。

浦上のキリシタンの歴史を見てきましたが、そこには、主を愛して従う者に対する主の真実を見ることができます。 彼らは待たされました。しかし主は遅れることなく、ご自身の約束の時に、彼らを迫害から救い、助け出されました。主は決して裏切らないお方、約束を守られるお方、真実なお方です。
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2015年01月11日

浦上四番崩れー悲しみを喜びに

しかし、キリシタン流配の処分を出した後、当主は死亡し、長男は懲戒のため高島炭坑に送られている時、ガス罰発により死亡しています。
その結果、未亡人はわずか12歳の病児を抱えて生計を立てるのに困り、ついに敷地から邸宅にいたるまでの広大な土地と建物を残らず競売に出して、村を立ち退くことになったのです。

浦上の信者は、何とかしてこの敷地を手に入れようとして祈り、そしてついに、わずか1600円で買い取ったのです(当時は米10キロ44銭)。
かつて絵踏みをさせられた場所で、彼らはミサを行いました。
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2015年01月08日

浦上四番崩れB孤児のための働き

赤痢が下火になったころ、台風が襲い、大暴風が浦上のバラックを吹き飛ばしていきました。それが片付いたと思ったら、今度は港の入り口の島々(蔭の尾島)に天然痘がはやりました。病気を恐れて、家族の者でさえ、患者を見捨てて逃げるほどでした。村にも町にも、親を疫病で奪われた孤児たちの姿がちらほら見えました。
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2015年01月06日

浦上四番崩れBド・ロ神父と篤志看護婦A

マキが動いたのを見ると、他にも守山マツ、片岡ワイ、深堀ワサという女性たちがたもに立ち上がりました。彼女たちはみな、
「旅」の仲で迫害を受け、拷問にかけられて辛酸をなめてきた人たちでした。

篤志看護婦となったこの4人の娘たちは、
神父から看護法を教えてもらい、恐ろしい伝染病がはやっている町々村々を回り、
大勢の人を助けました。
ド・ロ神父は毎夜、大浦天主堂に戻りました。マキたちは家に帰ると家族に伝染させる心配があったので、どこかに合宿することにしました。そのとき高木仙右衛門が自分の小屋を提供しました。そこで4人は共同生活を始めました。
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2015年01月05日

浦上四番崩れBド・ロ神父と篤志看護婦@

浦上村民の窮状を見たド・ロ神父は、毎朝4キロあまりの道を薬箱を下げて大浦から浦上に通い、病人の診療投薬に従事しながら、予防措置を教えて回りました。
ド・ロ神父はただ脈をとり、薬を与えるだけはなく、患者一人一人に神のことばを語って慰め励ましたのです。この救護活動を見て心を動かされ、すぐにその案内と手伝い、患者の身の回りの世話を申し出たのが岩永マキでした。
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2015年01月04日

浦上四番崩れBー浦上を覆う天災C

一年かけて辛苦の中で育てた農作物は、
風に吹きちぎられ、収穫は皆無となりました。米価は暴騰し、食べ物にも困った浦上農民に、赤痢はますます拡がりました。
そして浦上だけでも210名の患者が出ました。

しかしこの悪条件の中で、赤痢という恐ろしい疾病を210名の患者でくいとめ、8名の死者にとどめたのは、ド・ロ神父と彼を助けた岩永マキら篤志看護婦の献身があったからです。
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2015年01月03日

浦上四番崩れBー浦上を覆う天災B

キリシタンたちが浦上に帰ってきた翌年の
1874年度夏、まず赤痢が流行します。そこへ追い打ちをかけるように8月21日、台風が来襲し、長崎は大被害を受けます。

前年建てたばかりの浦上のバラック長屋はおお総倒れとなり、昔からあった家も含めて全戸数の半分は倒壊しました。前年建てたばかりの浦上のバラック長屋は総倒れとなり、昔からあった家も含めて全戸数の半分は倒壊しました。
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浦上四番崩れBー浦上を覆う天災A

彼らには、本当に何もなかったのです。あばら屋に住みつつ、港に行って皿のかけらを拾い、それで荒れ果てた畑を耕しました。
近くの村に日雇いに出て、芋やきゅうりの苗をもらいながら、働き始めました。
こうして一年が過ぎ、やっと畑からもいくばくかの実りが収穫され、生活もようやく一息つき、落ち着いたと思ったところへ、
疫病や天災が折り重なって浦上を襲ったのです。

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2014年12月31日

浦上四番崩れBー浦上を覆う天災@

彼らには、本当に何もなかったのです。
あばら屋に住みつつ、港に行って皿のかけらを拾い、それで荒れ果てた畑を耕しました。
キリシタンたちが浦上に帰ってきたとき、
浦上の地は荒れ果てていました。浦上四番崩れから帰ってきた人の中で、原子爆弾が落とされたあとも生き残った老人が10人ばかりいましたが、原子野に翌年雑草が一面に茂ったのを見て、流罪から帰ったときに
よく似ていると言いました。
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2014年12月30日

浦上四番崩れBー大声でオラショできるA

このように軒の傾いたあばら家と狭いバラック長屋ではありましたが、彼らはとてもとても喜んでいました。それは主の恵みによってキリストへの信仰を守り通して
故郷に帰ることができた上に「大声でオラショ(祈り)することができる」時世になったことが、何よりもうれしかったからです。

彼らの生活は極貧を極めました。けれども彼らのうちにある喜びはその貧しさによっては決して消すことのできないものでした。彼らは毎日毎日大声で祈ったのです。
主イエスに感謝しながらオラショを捧げました。日曜日には大浦天主堂に行ってミサにあずかりました。
8キロばかりあるのですが、彼らは少しも遠いとは思いませんでした。
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2014年12月29日

浦上四番崩れBー大声でオラショできる@

流されていた3394名のうち1900名が、ついに浦上に帰ってきたのです。しかしそのうち736人には家がありませんでした。
「旅」の間に壊されてしまったのです。

残りの1164人には家はあったのですが、家とは名ばかりの、壁も瓦も落ちたあばら家になっていました。もちろん畳や建具などはまったくありませんでした。
そこで、家なしの人のために竹の久保の官有林から切り出した木材で、ひとりあたり一坪の3,4軒続きのバラック長屋を建てて、とにかく落ち着かせることになりました。もちろん家財道具などはまったくと言っていいほどありません。
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浦上四番崩れBー2

しかしそのときには、613人はすでに流された地で殉教し、
亡くなっていました。

また6年あまりにわたってなされた残酷な拷問の中で、1011人は転んでしまったのです。この数字を見ても彼らへの迫害がどんなに厳しく残酷だったかがしのばれます。
彼らの大部分は帰郷後、再び元の信仰へ戻りました。
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浦上四番崩れBー1

キリストへの信仰を捨てない。ただそれだけの理由で「一村総流罪」となり、西日本諸藩に流された浦上キリシタンたち。
しかし主は、彼らが示したキリストへの愛を忘れず、彼らの主イエス・キリストへの従順を通して、キリストに対してまったく心が閉ざされていたこの国に、信仰の自由を与えてくださいました。

1873年3月14日、ついに彼らは流配地から浦上に帰って来たのです。
彼らのキリストへの信仰が、
日本のかたくなな政府に勝利したのです。

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浦上四番崩れA・・・信仰の自由C

そして1873年2月24日、キリシタン禁制の高札は撤去されたのです。ここに、
1614年より始まったキリシタン禁制は
262年ぶりに効力を失い、日本にキリストを信じる信仰の自由が与えられたのです。

そして3月14日、各地に流されていた浦上のキリシタンたちは釈放され帰村することになりました。
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浦上四番崩れA・・・信仰の自由B

特にベルギーのブリュッセルでは、
市民たちが大使らの馬車に押し寄せて、
浦上キリシタンたちの釈放を叫び、
「流されている浦上のキリシタンたちを
牢から出せ。」と言ってやめませんでした。
さすがにこんな異国の地で浦上の名前を聞こうとは思ってもいなかったので、最初は日本の内政問題であるとつっぱねていた
岩倉大使を中心とする使節団も、キリシタン邪教政策を修正せえざるをえなくなったのです。


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2014年12月26日

浦上四番崩れA・・・信仰の自由A


流されたキリシタンたちに対する拷問は外国使節団の耳に入り、諸外国の新聞や雑誌で報道され批判され、どこの国でもわきかえるような世論となっていました。
ちょうどそのようなとき、1871年12月24日に岩倉具視を全権大使とする一行がアメリカからヨーロッパ各国へ不平等条約改正の交渉のために行きました。
欧米のどこの国でも必ずキリシタン迫害のことが持ち出され、「キリシタンを迫害するとは野蛮国である」と厳しくつめ寄られ、信仰の自由を条約に記すようにと非常に強く迫られました。
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浦上四番崩れA・・・信仰の自由@

各地に流された浦上のキリシタンたちは津和野と同じように激しい迫害の中で、主にすがり聖霊さまの助けを受けながら耐え忍んでいました。彼らの頭にはキリストを信じる信仰を命をかけても守ろうという思いしかなかったことでしょう。
しかしそのことは彼らの知らないところで
「信仰の自由」という世界的な問題となっていたのです。日本はこの迫害のゆえに諸外国から抗議を受けていました。


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2014年12月24日

浦上四番崩れA-子どもの単純な信仰A

またあるときは、肥くみに来た近くの農民たちが、子供を喜ばせようとして、鳴くせみを捕まえて子供たちのいる牢に投げ込むと、子供たちは大喜びでそれを捕まえると、鳴かせて楽しむどころか、そのまま口に入れてばりばり食べてしまうのです。
子供たちはそんなにも飢えていましたが、
信仰に堅く立っている母にくっついて
信仰を守り通しました。

posted by 日本教会史 at 07:31| Comment(0) | 26聖人、長崎、殉教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする