2018年09月15日

二十五  十字架を負って1−人若し我に従はんと欲せば

 これは、彼らにとっては、まさに十字架でした。しかし彼らは、その殉教という十字架を、喜んで受け取り、黙って縄を受けたのです。 それはちょうど、キリストが、パリサイ人や律法学者たちの妬みによって、十字架につけられたのと、そっくりでした。また、キリストが捕らえられた時、祭司長たちと全議会による誹謗と偽証による不当な不法な裁判においても、大祭司の前で黙っておられたように、彼らも妬みと誹謗と中傷によって、十字架につけられることになった事を、黙って引き受けたのです。   私たちの日々の信仰生活においても、同じようなことが許されることがあります。もちろん今の日本では、殉教ということはないでしょうが、妬まれたり、ありもしないことを言われたりというのは、日常茶飯事です。 そのような時に、私たちは黙ってその十字架を受け取っているでしょうか。つぶやいてしまったり、恐れてしまったり、怒ってしまったりして、その十字架を投げ捨ててしまっていないでしょうか。その十字架から、逃げてしまっていないでしょうか。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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