2019年12月31日

四十二  浦上四番崩れ5−信仰の自由

子どもの単純な信仰
ある日、3歳のこどもがひとりで裁判に呼び出されました。役人はおいしそうなお菓子を見せびらかし、「キリシタンをやめたらみんなこのお菓子をあげるよ」と言って誘惑しました。子供は頭を横に強く振りました。「どうして?このお菓子はとってもおいしいんだよ」と役人が言うと、こどもは「お母がね、キリシタンば捨てないとハライソ(天国)へ行ける、言うたもん。ハライソへ行けばね、そげんなお菓子よりも、もっともっと甘か物あると・・・」と答えました。ハライソへ行けるというのがただ一つの望みであり、最も大きな喜びだったのです。子どもの信仰は。このような単純なものでした。
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2019年12月30日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

空腹の中で
絶えず腹を減らされ、仕事もさせられず、大勢狭い部屋に詰め込まれて、二月も同じ説教を聞かされると、次第に望みも薄くなり、体も弱り、あたまもへんになって、ついにテング(悪魔)の誘惑に乗ってキリストへの信仰を捨てる気になってしまうので、彼らにとってはこれほど恐ろしい効き目のある責め苦はないのです。こういう責め苦に逢うと、男より女の方が強く、かえって女から男がはげまされいました。子どもは母の教えたとおりにします、こういう大きな迫害の中では、主婦がしっかりしていた家族だけが、最後まで信仰を守り通しました。
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2019年12月25日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

仙右衛門は体中がうずき、次に悪寒と戦慄(せんりつ)がきて、歯も抜けるかと思いましたが、2,3日たつと不思議なことに、もともとかかっていた熱病まで治っていたのです。
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四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

もはや息が切れようとする時に、役人が「早く上げろ」と言いつけましたそれで警護の役人が「早く上がれと」二人に言いましたが,「今、宝の山に登りておるからには、この池より上がられん」と甚三郎が答えたので、役人は5メートルばかりの竹の先に鉤(かぎ)を付け、鉤の先に髪の毛を巻き付け、力任せに引き寄せて、水の中より二人を引き上げました。
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2019年12月24日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

空腹の中で
さらに津和野には、先に流されてきた28人の家族の125人が、2月の初めに着きました。もうすでに役人たちは、説教だけでは転宗させることができないと分かっていたので、空腹の責め苦にかけました。
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四十一  浦上四番崩れ5ー津和野の拷問

すると氷は、みしみしと破れ、二人は氷の下を泳ぎ回りましたが、深くて背が届かず、やっとの思いで池の真ん中に浅いところを見つけて足先で立ち、破れた氷の上に頭を出して苦しい息をしました。そのとき、役人が「仙右衛門、甚三郎、天主が見ゆるか。さあ、どうじゃ」とあざけりました。そして、水を何度も組んで顔に投げ付け、いきができないようにしました。それよりだんだん体は冷え凍り、震えが来、歯はがちがち鳴り出しました。その時、仙右衛門は甚三郎に言いました。「甚三郎、覚悟はいいか。私は目が見えぬ。世界がくるくる回る。どうぞ私に気を付けてくだされ」
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2019年12月23日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

氷責め
冬のある日、仙右衛門と甚三郎は朝から呼び出されました。彼らはどんなに説教されても信仰を捨てません。それで氷責めにかけられました。その時津和野では、雪がひと月以上降り続き、60センチ以上も積もっていました。池にも厚い氷が張っていました。その池の縁に4斗おけ二つ並べ、柄長のひしゃくで2人の裁判の役人や警護の役人5、6人が彼らを引き出し「外国の宗教を信じる者は日本でできたものは身に着けてはならぬ」といって、ちょんまげの頭に巻いてある紙のこよりも切りのけ、着物もふんどしも取りのけ、真っ裸にして氷の張った池の上にふたりを突き落としました。
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2019年12月22日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

柴束2つをたき付けとして枯れ木を立てて燃やし、二人の体を6人で抱えてその火にあぶり、ぬくめ入れ、気つけを飲ませて正気付かせました。「その時の苦しさは何とも申されぬ」と甚三郎は手記に書いています。仙右衛門は体中
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四十  浦上四番崩れ4−一村総流罪

転宗した者は別の場所に移され、腹いっぱいになるまで食べ、仕事に出ることも許されました。そこへ、まだ転ばない者たちを3,4人ずつ連れてきて「お前もただお上の言いつけに従って西洋の宗教を捨てれば、今のこの地獄からあのような極楽に移れるのだ」と誘惑するのです。それでも転ばぬ者たちは三尺牢(さんじゃくろう)に入れられました。三尺牢は90センチ立方の箱で、前は6センチ角の柱を3センチおきに打った格好になっており、天井に食事などを入れる穴が一つあるばかり、ほかはすべて厚さ4センチの松板で固くできていました。体を曲げてやっと入っていられる狭さでした。
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2019年12月21日

四十  浦上四番崩れ4−一村総流罪

津和野での拷問
この旅の中で、特に迫害が激しかった津和野の事を、少しだけ書いておきます。仙右衛門や甚三郎は、津和野に流されました。初めは毎日お寺のお坊さんが来て説教をし転宗を迫りました。こうして半年が過ぎました。今度は神主の佐伯という人が説得にかかりましたが、信者は全く感心しません。そこで仕方なく、拷問を加えることに方針を変えました。畳をはぎ取り、食事には1日米3合、塩一つまみと水、むしろとちり紙1枚をあてがいました。着物は捕らわれた日に来ていた物があるだけでした。板敷きの上に、みんなで抱き合って寝ましたが、冬の津和野はあまりに寒くて眠れません。とうとう16人は耐え切れずに転宗を申し出ました。
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2019年12月20日

四十  浦上四番崩れ4−一村総流罪

「旅」
信者たちは、この流罪を「旅」と言いました。一村総流罪というこの旅は、近代日本の歴史に特筆されるべき残酷物語ではありました。しかし旅に出る人々の心は明るかったのです。信仰を守り神さまへの忠実を貫いて、殉教への旅に出ることは、彼らに残されたただひとつ道だったからです。この旅では、、家族ばらばらにされる者が多く、親に別れ、夫に別れて見知らぬところに連れて行かれてひどい難儀をしたようです。彼らは信仰を守り通すため、全国21藩に流配され、6年有余の長い間、飢え渇きながら数々の拷問の苦しみに耐え、ついに1873年(明治6年)、キリシタン禁制の高札が撤去され、荒れ果てた浦上に帰って来るのです。
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2019年12月15日

四十  浦上四番崩れ4−一村総流罪

「旅」
信者たちは、この流罪を「旅」と言いました。一村総流罪というこの旅は、近代日本の歴史に特筆されるべき残酷物語ではありました。しかし旅に出る人々の心は明るかったのです。信仰を守り神さまへの忠実を貫いて、殉教への旅に出ることは、彼らに残されたただひとつ道だったからです。この旅では、、家族ばらばらにされる者が多く、親に別れ、夫に別れて見知らぬところに連れて行かれてひどい難儀をしたようです。彼らは信仰を守り通すため、全国21藩に流配され、6年有余の長い間、飢え渇きながら数々の拷問の苦しみに耐え、ついに1873年(明治6年)、キリシタン禁制の高札が撤去され、荒れ果てた浦上に帰って来るのです。
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2019年12月09日

四十  浦上四番崩れ4−一村総流罪

1月5日の朝、振遠隊という長崎守備の兵士たちが浦上に出張して、男子たる戸主700人を集め、大雪の中、終日役所の庭に立たせた末、夕方になってから長崎港(大波止)に集まっていた12隻の汽船に彼らを乗せました。翌6日には先に萩、津和野、福山に流された114人の家族を召喚して、彼らも夕方、その汽船に乗せました。また700人の残りの家族に対しても検挙が始まり、男も女も、老人も子どもも、みんな勇んで家を出ました。あるものは汽船で、ある者は和船で、ある人は長崎港の大波止から、他の人は時津(時津)からというふうにして、いろいろな船で20ヶ所に流されたのです。
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四十  浦上四番崩れ4−一村総流罪

そして1870年1月1日、突然、残された戸主700人に、明朝六時(午前6時)までに立山役所に集まれと出頭命令が出ました。あまりにも突然だったので出かけている者もあり、5日に改めてほしいと信者が申し出、役所もそれを許しました。その中に長崎にいる各国領事をはじめ、たまたま長崎に来ていたイギリス公使パークスたちが県知事に掛け合って、なんとかやめさせようとしましたが、知事は「東京政府から出た命令なので何ともしがたい」と突っぱねたのです。
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2019年12月07日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

しかし、それはあまりにひどすぎると、参与小松帯刀が三条実美に意見を申し出たので、死刑にしな いで全員流配することに決まりました。こうして神道国家主義をとった明治新政府は、キリストへの信仰を捨てない浦上のキリシタンたちを「一村総流罪(いっそんそうるざい)」にすることに決めました。この結果、浦上の信者3394人が金沢や名古屋、それに萩、津和野、鹿児島などの 西日本の諸藩に流されるという大変な処分が、行われることになったのです。
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2019年12月06日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

浦上一村総流罪
5月17日、大阪の本願寺で処分に関する御前会議が開かれ、三条実美、木戸孝允、伊達宗城、井上馨に、長崎から呼び出された大隈重信が加わりました。御前会議では沢の処分案や重臣の意見も参考にされましたが、木戸の意見が用いられ、中心人物を長崎で死刑にし、残りの三千余人を名古屋以西の十万石以上の諸藩に流配、大名に生殺与奪の権を与え、7年間は一口半の扶助米を
支給し、キリシタンの中心浦上を一掃することに定まりました。
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2019年12月05日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

「まだキリシタンを信仰しているというが相違ないか」「相違ございません」と仙右衛門が答えます。「早速やめろ」「キリシタンをやめたいならとっくの昔にやめています。これからも呼び出されれば出て参りますが、何度参りましても同じでございます」「皆のもの、その通りか」「さようで、さようで」と異口同音に答えました。信者たちの決心の堅さを見て、沢宣嘉は「中心人物は斬首(ざんしゅ)、その他の者は流罪にする」という浦上信者処分案を井上馨に待たせて京都にやり、政府の決済を求めました。
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2019年12月04日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

一方、長崎では沢宣嘉は、浦上キリシタンの指導者26人を総督府に呼び出して、キリシタンを捨てよと、厳しく命じ、詰め寄りました。しかし改心戻しをした時、彼らは殉教を覚悟していましたので「死刑にされてもかまいません」と言って信仰を改めようとはしません。そこで沢宣嘉は4月29日に180人の戸主を呼び出し、総督府の庭の小石の上に座らせて12人の役人を従わせて出てきました。
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2019年12月02日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

キリスト教邪教観
五榜の掲示の第三札には、次のように書かれていました。
一、切支丹邪宗門の儀(きりしたんじゃしゅうもんのぎ)は固くご制禁たり。若し(もし)不審なる者の有れば、その筋の役所に申出可、ご褒美(ごほうび)下さる可事。慶応4年3月                           太政官  これを見た欧米の外交官から「我々文明人の信じているキリスト教を邪宗というのは我々に対する侮辱である」と政府へ抗議してこられ、政府は困って
一、切支丹邪宗門の儀は、これまでご制禁の通り固く相守るべく候事。
一、邪宗門の儀は、固く禁止の事。
と書き改めました。      
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2019年12月01日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

キリスト教邪教観
年は改まり1868年、明治新政府は、沢宣嘉を、九州鎮撫総督兼外国事務総督に任命します。彼は井上聞多(馨)を連れて3月7日に長崎に着任します。 新政府は4月7日に五榜の掲示を掲げ、神道国教主義の政治方針を明らかにしました。つまり、神道により民心を一つにまとめようとしたのです。それは、当然キリシタン弾圧を決定づけました。
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