2019年11月30日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

庄屋は止むなく、その夜のうちに、彼らの名簿を添えて長崎代官に届けました。数日後、彼らは彼らは奉行所に呼び出されました。殉教覚悟で、彼らは出頭しました。ところが白洲へ出てみると、案に相違して、「いずれ厳しく吟味いたすので、その時呼び出すまで自分の家におれ」と言い渡されて奉行所から追い出されました。というのは幕府が倒れて、天皇政治が始まろうとしており、奉行所はそれどころではなかったのです。翌11月9日に、15代将軍慶喜は大政奉還し、浦上事件を解決できないまま、幕府は倒れました。
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2019年11月28日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

平生は強そうに見え、教理もよく知っている伝道士たちが、みんな転んでしまったのに、無学で弱弱しく見えた仙右衛門が、一人信仰を守り通したので、転んだ連中は、恥ずかしくてたまらなくなりました。それで仙右衛門にできたのなら、自分にもできないはずはないと、女性5人を含む38名の者が庄屋の門を開いて「回心戻し」を申し出たのです。回心戻しとは、一度転んで改宗しキリストを捨てたことを取り消して、元のキリストへの信仰に戻ることです。
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2019年11月26日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

彼が一人だけ転ばずに信仰を守り通せたのは、特別に主にすがり、自分の弱さを覚えて祈っていたからでした。いやむしろ、彼は弱かったからこそ、断食までして、主イエスさまと聖霊さまに、真剣に助けを求めたのです。そしてその祈りは、主に聞き届けられ、彼はどんなに目の前で、ひどい責め苦を見せられ、他の者たちが目の前で次々に転んでいっても転ばなかったのです。主は、ほかの誰でもなく、字も読めず無学であっても、祈り、主にすがるものに助けを与え、日本の信仰の自由を勝ち取らせてくださったのです。
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三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

転んで先に帰った人たちは、家族から「信仰を捨てたものはきっとテングがついたに違いない。家にいれると一緒にテングもついてきて、みんな転んでしまう。だから家にいれるなもしあなたが家にいるなら私が出る」と言われ、家にも入れてもらえませんでした。かといって外にもおられず、天主を捨てたという思いで身一つ置くところなく、昼も夜も山の中で、3日3晩泣いていました。そこへ仙右衛門が帰ってき、まるで凱旋将軍のように村人が迎えていました。
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2019年11月25日

三十八  浦上四番崩れ2−浦上信徒発見

祈りによって
その時 村の人が仙右衛門に、どうしてあんなひどい拷問を しのぐ ことができたのですかと聞きました。「どんな強い人間でも、あんな目に遭わせられたら、人間の力だけでは、とてもしのぐことができません私が転んだら天主様、」また日本のたくさんの殉教者に対して申し訳ないと思い、断食の祈りをささげ聖霊さまのお助けを祈っておりました。聖霊さまのお力で、しのげたのでございましょう」と仙右衛門はこたえました。
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2019年11月22日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

祈りによって
ただひとり高木仙右衛門は、転びませんでした。この人は農民でした。字は読めず、特別な学問を受けたわけでもなく、見た目には弱そうな人で、仲間さえ、どこからそんな勇気が出てくるのか信じられないくらいでした。彼は、ただ単純に、教えられた事を信じて守っていただけでした。毎金曜日にはキリストの御受難を思って 断食し、祈りをしている人でした。
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2019年11月19日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

過酷な拷問
それをみて、今ひどい目に遭った6人もすっかり気を落としてしまい、つめ印を押してしまいました。役人は「あれを見たか、あのような体になってから改心するよりも、今体の痛まぬうちに回心したらどうだ」と、これから拷問を受けようとしている5人の者や、まだ転び証文につめ印を押していない者たちに言いました。それで、これから拷問を受けようとしていた5人もすっかり気を落としてしまい、残っていた人たちも、みんな爪印を押してしまったのです。ただひとり、高木仙右衛門だけを残して。
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2019年11月18日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

過酷な拷問
水をかけると縄は、短く縮み、肉に入り、皮膚は紫色に変わります。そして、また気絶してしまいます。こうして6人は門口に引き出され、捨て物のように転がされました。続いて次の5人も同じ目に遭わせようとしました。この拷問の有様を見せられていた人たち何人かは、「これから毎日こんなめに遭わせられるなら、とても信仰を守り通すことはできない」と、転び証文の自分の名前の下に、つめ印を押してしまったのです。
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2019年11月17日

浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

過酷な拷問
駿河(するが)問いという責め苦(「ドドイ」)とも呼ばれる)を受けるため、6人が選ばれました。これは両足を背中に反らせて、両足手首、それに首、胸にも縄をかけて、それを背中の1ヶ所にくくり寄せ、その縄を梁に巻き上げ、体を弓のように反らせて、つるすのです。コマのように勢いをつけて、振り回し、次によりを戻して逆に回転させます。そして下に立った役人が棒とむちで散々に打ちたたきます。するとほとんど気絶してしまいます。それから地面に引き下ろして水をかけ、正気に戻して繰り返すのです。
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2019年11月16日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛  

また、彼らが捕らえられた後にも、浦上では、死人が出た時坊さんを呼ばない人たちが、次々に桜町牢に入れられていました。10月5日、68人は再び小島牢から桜町牢に移されましたがその時には彼らは83名となり2坪ちょっとの4畳半の牢に38人が詰め込まれる有様でした。それでも彼らは、責められても、苦しめられても、信仰を、この時までは守っていたのです。けれども桜町牢での拷問は凄惨(せいさん)を極め、その結果、ついに高木仙右エ門ただ一人を残して、82人が転んでしまうのです。
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2019年11月15日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

長崎奉行は、浦上農民たちが囚人たちを奪い返しに来るかもしれないと思い、2日後には小島に新牢を造り、そこに移しました。そこから仙右衛門、与五郎、寅五郎、又市などは、取り調べのために、たびたび西役所に引き出されました。一方、キリシタンであるという信仰の問題だけで捕縛投獄されたことに在留異国人は衝撃を覚え、各国の領事は奉行に抗議しました。さらに問題は幕府と各国外交団にうつされ、毎日のように議論されました。しかしキリシタン邪教観は強く、なかなか解決しませんでした。そうしている間にも「入牢者には拷問を加えない」という外交団との約束は破られ、長崎では捕らえられた68人に説得やひどい拷問が加えられていました。
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2019年11月14日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

捕縛
1867年7月15日の早朝3時頃、大雨をついて捕手たちは浦上の地に踏み込み、68人が捕らえられました。これが「浦上四番崩れ」の始まりです。彼らは桜町牢(ろう)に入れられました。この桜町牢は、もともと教会のあったところですが、1614年の迫害の時に壊され、その後に牢獄が造られて迫害時代に多くの神父や信者たちが、苦しみをしのぎ、殉教へ旅立っていったところです。

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2019年11月13日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

代わった明治新政府は、神道を中心に天皇政治を目指したため、キリシタンに対しては迫害の手を緩めるどころか、ますます激しくなりました。そのため、キリシタンへの迫害と弾圧は、外交上の問題となりました。明治6年、すなわち1873年になって、やっとこの問題は解決し、キリストを信じることが認められたのです。しかしそのためには「浦上四番崩れ」といわれるている、明治政府によるキリシタン弾圧の中での激しい迫害と殉教を、通過しなければならなかったのです。
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2019年11月12日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

「ワタシノムネ アナタノムネトオナジ」この言葉をもって復活したキリシタンたちは、うれしくてうれしくてたまりません。それまで隠れ続け、待ち続けたきた キリシタンたちは、毎日のように天主堂に通い、熱心に祈り、御言葉を学びました。けれどもまだ、日本はキリスト教を禁止していました。その結果、浦上のキリシタンたちは、ついに捕らえられ、牢に入れられてしまいます。まず最初に、指導者の68人が捕まりました。そして、この問題を解決できぬまま、江戸幕府は倒れてしまうのです。
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2019年11月11日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

捕縛
1867年7月15日の早朝3時頃、大雨をついて捕手たちは浦上の地に踏み込み、68人が捕らえられました。これが「浦上四番崩れ」の始まりです。彼らは桜町牢(ろう)に入れられました。この桜町牢は、もともと教会のあったところですが、1614年の迫害の時に壊され、

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三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

これから「浦上四番崩れ」について書いていきたいと思いますが、その前に今までに書いてきたことを、簡単にまとめておきます。激しい迫害の中で潜伏した キリシタンたちは、バスチャンの残した予告預言を信じて7代250年の間、罪に告解を聞いてくれる神父が来るのを待ち続けていました。そして、預言通りに、7代250年たった時に、神父がついにやって来たのです。
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2019年11月10日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

その結果、この問題は江戸幕府と上記各国等による外交団との間に移され、外交団は毎日のように、この問題をもって幕府に迫りました。しかし徳川250年の間に培われた キリシタン邪教観は根深く、なかなか解決はしなかったのです。そして、キリシタン事件を解決できないまま、幕府は瓦解してしまうのです。
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2019年11月09日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

領事たちは「日本が宗教を許さないということは、野蛮国であるという証拠であり、この度の事件が本国へ報告されたならば、日本の立場は非常に悪くなるでしょう」と注意しました。しかし奉行は「これは純粋な内政問題なので 外国の指図を受けるものではない。ことに200年来も守られてきたキリシタン禁教命令の法令を止めることは幕府だけがすることで、地方の問題ではないから、どうか江戸幕府へ談判して欲しいです」と答えました。
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三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

その日(7月15日)の午前11時プロシア領事が、翌16日には フランス領事レックスが、その翌17日は、ポルトガル領事ロイレロが奉行所を訪ね、抗議しました。その数日後に来埼したアメリカ公使ワルケンブルグも奉行所に抗議し、牢内にいる信徒たちを見舞いました。大国アメリカの全権公使が、農民信徒たちを懇切に慰問したことは、長崎奉行所をずいぶん驚かせたようです。
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2019年11月08日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

浦上四番崩れ
1867年7月15日の早朝3時ごろ、大雨をついて安藤弥之助の指揮する捕手たちが、数隊に分かれて浦上の秘密聖堂や主だった信者の家を襲い、踏み込みました。秘密聖堂は散々荒らされ68人が捕らえられて桜町牢に入れられました。これが「浦上四番崩れ」と言われている大迫害の発端です。
こうして浦上で、再び迫害が始まったのです。キリシタンであるという信仰の理由だけで、このような捕縛投獄が行われたことは、居留外国人たちに、大きな衝動を与えました。そしてこの事件は、その日のうちに外交問題となりました。
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2019年11月07日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

庄屋があわてたのも無理はありません。「それでは聖徳寺との縁を切りたいものの名簿を出せ」といったところ、本原郷400戸 家野郷100戸あまり、中之郷100戸というように、元来の仏教徒と裕福ではあるが信仰心のうすかったキリシタン30戸だけを除いて、村民のほとんど全部が名を連ねたのです。これで、ついに浦上村の人々がキリシタンであることが、明るみに出たのです。そこで長崎奉行所では、たくさんの間者を浦上に潜入させ名簿を作り、主だった指導者たちのことや4ヶ所の秘密聖堂の坪数、間取りまで詳しく調べさせていました。
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2019年11月06日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題


翌6日、平の宿の久蔵が死んだときには、聖徳寺にも知らせずに自葬してしまいました。それを知った聖徳寺が、庄屋に訴え出て問題になってしまいます。その問題になっている真っ最中の4月14日、平の三八の母たかが死にました。今度は庄屋が気を利かせて坊さんを連れてきましたが、家の者が承知しないで、お経を上げるのを断り、自葬しました。庄屋は「今の坊さんが嫌いなら、お坊さんを代えてやる」と言いましたが「どなたであろうと坊さんは要らないのです。お寺とは縁を切りたいのです」と答えました。これは大変なことでした。なぜなら死人が出た時、坊さんを呼んでお経を上げるというのは、祖法(徳川家康、秀忠、家光三代の間に決まった背くことの出来ない大事なおきて)だったのに、それを「嫌です」と言ったのですから
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2019年11月05日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

自葬問題
当時は、死人があると必ず檀那寺(だんなでら)の坊さんを招いて読経を頼み、坊さんの立会いのもとで納棺することになっていました。しかし神父から指導を受けるようになると、このような表面仏教という態度を精算しなければいけなくなったのです。1867年4月5日、本原郷の茂吉が死んだとき、これまで通り聖徳寺の坊さんを呼んできましたが、使いの者が途中で、わざとつまらぬことを言って坊さんを怒らせたので坊さんは帰ってしまいました。これで幸いと、茂吉の家では坊さんなしで自葬してしまったのです。
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2019年11月04日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

役人の目を盗んで
プチジャン神父は、ちぢれ髪やひげをそり落とし、シュロの毛を黒く染めて作ったかつらをかぶります。そして日本の農民の着物を着て、わらじをはいて角帯を締め 手ぬぐいを法被りしてほおかぶりして日本人に化けるのです。そうやって、夜中に山の中の小道を案内されたり、小舟に乗せられたりして、村や島々を回りました。一方では、大浦天主堂の屋根裏部屋に、村々の代表や青年たちを集めて、いろいろと教えました。そして伝道士として村へ帰しました。こうして彼らの信仰は、日ごとに強められ、燃やされていったのです。
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2019年11月03日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

役人の目を盗んで
それでも信者たちは、役人の目を盗んでは、夜となく昼となく、天主堂に入り込んでオラショを唱え、神父たちと話をするのでした。それが役人の目にあまりひどく映ると、新しい迫害が起こるかもしれません。そこでプチジャン神父は信者たちに、天主堂に来るのを遠慮するように言い、自分の方から出て行って信者たちの代表と会うことにしました。また信者の隠れている村々や島々ヘも出かけることにしたのです。
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