2019年10月31日

三十六 キリシタンの復活3−自葬問題 

7代250年間待ち続けていた神父が、ついにやって来たのです。イザベリナゆりたちがフランス寺で会った 異人がその神父がであるということは、その日のうちに浦上中に知れわたり、浦上の全村民が知るところとなりました。すると、その翌日から、浦上の信者たちは続々と、早朝から天主堂へ来るようになりました。しかし、日本はまだ、厳重な禁教下にあったので、役人たちの警戒もまた、教に厳しくなりました。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月30日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

彼らが、さらに神父に質問しようとすると、ほかの日本人が、天主堂に入ってきました。その途端、神父の周りにいた彼らは、たちまちぱっと八方に散り散りになりましたが、すぐまた帰って来て「今の人たちも村のもので私たちと同じ心でございます。ご心配いりません」と申しました。こうして、浦上のキリシタンが、発見されたのです。そして、それに引き続いて、長崎県だけでも数万人ものキリシタンたちが潜伏していることが、明らかになりました。1614年1月の大禁教令から251年にわたる、激しい迫害と殉教の期間を潜伏し続けたキリシタンは、ついに復活したのです。これは他国に類を見ない出来事として、世界宗教史上でも注目されています。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月29日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

確かに彼らは、イエス・キリストを信じて、神父の来るのを250年間待ち続けていたのです。彼らの中の1人が、さらに申しました。「御主(ゼズス)さまは・・・33歳の時、私たちの魂の救い十字架にかかって、お果てになりました。ただ今、私たちは『悲しみ節』にいます。あなたさまも『悲しみ節』を守りますか」「そうです。私たちも守ります。今日は『悲しみ節』の17日目です」神父は、「悲しみ節」という言葉をもって「四旬節」(復活祭前の40日)を言いたいのだと悟ったのです。悲しみ節の期間、迫害下の潜伏の中でキリシタンたちは、断食と祈りを守り続けてきたのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月28日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見
この言葉を耳にした時のプチジャン神父の驚きと喜びは、今の私たちには、到底察し得ないでしょう。この時、250年にわたって地下に潜伏していた日本のキリシタンたちが、再び復活したのです。驚きながら立ち上がろうとする神父に、その婦人は畳みかけるように聞きました。「サンタ・マリアのご像はどこ」神父が聖母像の前に案内すると、みんなが集まってきて「本当にサンタ・マリアさまだよ。御子ゼズスさまを抱いていらっしゃる」と言うのでした。プロテスタントの牧師である私は、彼らがマリア像を探していたことに、つまづきを覚えていました。ところが先日、ある神父の方が、こう言われるのを聞きました。「みな、『サンタ・マリアのご像はどこ』という言葉ばかり強調する。でも大切なことは、彼らはこのご像の前に来て、御子ゼズスさまを探していたことです。彼らはイエスさまを探していたのです。そのことを忘れてはならない」

posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月27日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見
プチジャン神父が、祭壇の前でひざまずいて祈っていると、天主堂の中にも窓の外にも、役人らしい人影がいないのを確かめてから、彼らの中の3人の婦人が、プチジャン神父に近づいてきました。そして、その中の一人のイザベリナゆりが、自分の胸に手を当てて、神父の耳元にささやいたのです。「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ (ここにおります私たちは皆、あなた様と同じ心でございます。)」神父は驚いて聞き返しました。「本当ですか。どこのお方です。あなたがたは」「私たちはみな、浦上の者でございます。浦上ではほとんど皆、私たちと同じ心を持っております」
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月26日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見
1865年3月17日、金曜日の昼下がり、フランス寺の前に十数名の男女の農民がやって来ました。フランス寺の扉は鍵が掛けられてしまっていました。彼らには、フランス式の掛け金の開け方が分からないのでがちゃがちゃとさせていると、プチジャン神父が急いでやって来て開けてくれたのです。神父が聖所の方に進んで行くと、この十数名の参観人の一行は物珍し気に、きょろきょろしながら後ろからついて堂内に入って行きました。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月24日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

けれども、神父はあきらめませんでした。きっと、長崎にはまだキリシタンたちが残っているに違いないと信じて、彼らと会える日を待ち望んでいたのです。それで、プチジャン神父は、長崎ばかりではなく、その郊外辺りにも、たびたび出かけて、キリシタンらしい人はいないか、キリシタンらしき家はないかと訪ねて歩いたのです。ある時は、子供にお菓子を与えて、食べる時に十字を切りはしないかと気を付けてみたり、とにかく、色々とやってみましたがみんな当てが外れて、信者らしい人とであえませんでした。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月23日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

献堂式の日には、日本人は誰も姿を見せませんでした。フランス領事から長崎奉行に案内状は出されていましたが、下役が代理として来ただけでした。それで、彼らは大いにがっかりしてしまいました。
posted by 日本教会史 at 15:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月22日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

1865年2月19日、フランス寺と呼ばれていた大浦天主堂の献堂が行われました。プチジャン神父は、ひそかに期待していたことがありました。それは、きっと昔からのキリシタンが、長崎に残っていて、天主堂ができれば、すぐにでも名乗り出てくるだろうと楽しみにしていたのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月21日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

大浦天主堂ーフランス寺
1863年、フランス人のフユーレ神父は、大浦の南山手に天主堂がを建てるための工事に着工します。フユーレ神父は、その翌年に帰国しますが、代わりに赴任したプチジャン神父は、日本人を使って、日本の材料で工事を進め、ついに1864年12月29日に落成し、翌1865年2月19日に献堂します。この天主堂は、北に向かって、日本二十六聖人が殉教した西坂に向かって真向かいに建てられているので日本二十六聖人教会、あるいは二十六聖人殉教者堂と名付けられました。しかし町の人々は、当時フランス寺と呼んでいました。今は地名にちなんで大浦天主堂と一般に言われています。この大浦天主堂で、浦上信徒の発見がなされたのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月20日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

鎖国破れる
1853年日本人ペルーが浦賀にやって来て、鎖国を続けていた日本は、外から力によって、目を覚まされることになります。そして5年後の1858年(安政5年)、日本はアメリカ、オランダ、、ロシア、イギリス、フランスと修好条約を結び、長崎港などの5港が開港されます。その結果、外国人居留地ができるようになりました。ここに、ついに、200余年にわたって続いた日本の鎖国は破れたのです。この修好条約の中には「居留民(外国人)は自国の宗教を自由に信仰いたし、その居留の場所へ、寺社(自分の宗教の礼拝堂)を建てたるも妨げなし」と書かれていました。これによって、今まで禁止されていたキリスト教信仰が、外国人居留者に限って公認されたのです。こうしてこの結果、長崎市にも天主堂が建てられることになりました。
posted by 日本教会史 at 16:14| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月18日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

実際に、1867年に始まった「浦上四番崩れ」と、それに続いてった大村領木場の三番崩れ、悲惨極まる五島崩れ、外海や伊王島、蔭の尾島、大山、善長谷などの離島へき地にまで及んだ残酷な迫害の中で、殉教する者たちも出ました。キリストへの信仰の自由を勝ち取るために、どうしても、このような厳しい季節を、忍びながら通過しなければならなかったのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月17日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

しかし、彼らが信じて待ち続けた、大声でキリシタンの歌を歌って歩ける喜びを得るためには、もうしばらくの時と、迫害と殉教という困難と試練が必要だったのです。この国が鎖国を解き、250年以上も続けたキリシタン弾圧と迫害を止めて、キリストを信じる信仰の自由を得るためには、再び殉教の血が、流されなければなりませんでした。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月16日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

7代250年間、バスチャンが残した予告預言を握って、コンヘソーロがやって来ることを信じていました。待ち続けた続けた浦上のキリシタンたち。その予告通りに、7代目に当たる幕末に黒船がやって来て、大浦天主堂が建ち、神父が来て、キリシタンの復活が起こるのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月15日

三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの4つの予告預言

また長崎港の近くに善長谷というカトリック信者の村がありました。ここはもともとは禅定谷と言いましたが、佐八という水方が引率して家族と2人の独身者が移住してきたのです。佐八は臨終の時、各戸の家頭を枕元に集め、諭して言いました。「やがて黒船に乗ってくる人と一つになれ」と。このように「7代たったらコンヘソーロがやってってくる」という預言の言葉は、潜伏しているキリシタンたちにとって、とても大きな希望となっていたのです。そして、その預言の通りに、7代目に当たる幕末に黒船がやって来、キリシタンの復活が起こるのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月14日

三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの4つの予告預言

外海の形右衛門
ところがある日、大きな黒船がやってきたと言って人々が騒いでいるのです。彼は小高い丘に登って、そのところを打ち眺めました。「これじゃ。これがバスチャンさまの預言の黒船じゃ。、じゃが、わしはコンヘソーロに会うて、コンヒサンを申すまでは生きておらぬ」そう言って、彼は涙をこぼしたのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月13日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

7代250年間、、バスチャンが残した予告預言を握って、コンヘソーロがやって来ることを信じて待ち続けていた浦上のキリシタンた
posted by 日本教会史 at 12:38| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの4つの予告預言

外海の形右衛門
バスチャンから7代たった時に、長崎の外海というところに形右衛門という一人の老人がいました。彼は信仰篤(あつ)い人で、コンヘソーロ(神父)が来るのを、ずっと待っていました。彼は涙を流しながら、こう言っていたのです。「黒船の渡来も遠い事ではないぞ。コンヘソーロがやって来て、コンヒサンを聞き、罪科の赦しを頂ける日は近づいた。オラショも教えも大声でできるようになるぞ。牛肉も食べられる世にはなるが、それは金持ちや上つ方ばかりで、我々貧乏人の口には乗るまい。その日が近づいたというのに、このわしは何と不幸なんじゃ。コンヘソーロに会(お)うて、コンヒサンを申すこともできないで死んでしまう。しかし、お前ら若い者は、その時代を見ることができるのじゃ」
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月12日

三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの4つの予告預言

バスチャンの4つの予告預言
バスチャンが残した4つの予告預言とは、次のようなものでした。
一、お前たちを7代までは、わが子とみなすが、それから後はアニマ(霊魂)の助かりが困難になる。
二、コンヘソーロ(告解を聞く神父)が大きな黒船でやってくる。毎週でもコンヒサン(告解)ができるようになる。
三、どこででも大声でキリシタンの歌を歌って歩ける時代が来る。
四、道でゼンチョ(ポルトガル語で教外者)に出会うと、先方が道を譲るようになる。
キリシタンたちは、この4つの預言の言葉を、心に大切に抱きながら、告解を聞いてくれる神父がやって来て、大声でオラショ(お祈り)することのできる日を、7代250年間、信じて待ち続けたのです。そして、預言が成就する日が、やってきたのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月11日

三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの4つの予告預言

信徒発見がされるまでの7代250年間、信仰を守り通した浦上のキリシタンたち。彼らが信仰を継承し、守り続けることができたのは、帳方・水方・聞役というしっかりとした地下組織と 日本人伝道士セバスチャンが残した「バスチャンの日繰り」があったからです。そして実は、もう一つとても大切なことがあります。 それは、バスチャンが残した4つの予告預言でした。
posted by 日本教会史 at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月09日

三十二  キリシタンの潜伏4−バスチャンの日繰り

断食の祈りを通して
このバスチャンについての伝承が、どこまで信ビョウ性を持つものかは何とも言えませんが、確かに「バスチャンさまの日繰り」が今も残っており、それがキリシタンたちの信仰の継承にとって、どれほど大きな力であったかということは、決して否定することのできない事実なのです。そしてそれは、バスチャンの切なる断食を伴った祈りを通して、主が与えてくださったものだったのです。一人の伝道師の切なる祈りが、その後250年間続いた迫害の中で人々の信仰を支える力となりました。一人の真実な祈りは、主の心を動かし、その祈りの答えは、多くの人々の信仰をも引き上げ建て上げていったのです。確かに主は祈る人々を通して働いてくださり、祈りを通して、人々を祝福してくださるのです。実は、バスチャンが残したのは「日繰り」だけではありませんでした。彼も殉教者でしたが、処刑される前に、4つの事を預言し予告しました。そして人々は、この預言を大切に伝承していったのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月07日

三十二  キリシタンの潜伏4−バスチャンの日繰り

ジワンとバスチャン
バスチャンは、ジワンという神父の弟子になって、ともに伝道していました。ところがある時、ジワンは突然、国に帰ると言って姿を消してしまったのです。バスチャンはすでに日繰りの繰り方を、ジワンから教えられてはいましたが、まだ十分には納得してはいませんでした。それで、彼は21日間断食をして「もう一度ジワンが帰って来て教えてください」と主に祈ったのです。すると、どこからかジワンが帰って来て教えてくれたのです。そしてバスチャンと別れの水杯をして、ジワンは海上を歩いて遠くへ去っていったと言われています。





posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三十二  キリシタンの潜伏4−バスチャンの日繰り

この「日繰り」の存在は、長い迫害下の中で、浦上はもとより、外海・五島・長崎地方のキリシタンたちが、信仰を伝承しえた力の一つであったと言っても、決して過言ではありません。それほど大きな影響を与えた、この「日繰り」がどのようにしてできたかを、今回は書きたいと思います。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月06日

三十二  キリシタンの潜伏4−バスチャンの日繰り

7代250年に間、地下に潜伏し、信仰を守り通した浦上のキリシタンたち。彼らが信仰を守り通すことができたのは、ひとつには帳方・水方・聞役という指導系統がしっかりしている地下組織を持っていたからでした。そしてもう一つが、本人伝道師バスチャンが残した「バスチャンさまの日繰り」と言われている1634年の太陽暦によるキリシタン暦です。この暦があったので受難週や復活祭、聖霊降臨日や降誕節などの日を繰り出すことができたのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月05日

三十一  キリシタンの潜伏3−浦上の地下組織

長い迫害下の中で、浦上はもとより、外海・五島・長崎地方のキリシタンたちが、信仰を伝承しえた力の一つは、この「日繰り」であったと言っても、決して過言ではないのです。ではどのようにしてこの「日繰り」ができたのでしょうか。それについては、次章で書きたいと思います。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする