2019年02月28日

四十五  浦上四番崩れ9−悲しみを喜びに

悲しみを喜びに
 浦上の信者は、何とかしてこの敷地を手に入れようとして祈り、そしてついに、わずか1600円で買い取ったのです(当時は米10キロ44銭)かって絵踏みさせられて場所で、彼らはミサを行いました。主は彼らの涙を覚えておられ、迫害と殉教という火の試練を通した後に、彼らの悲しみを喜びに変えられたのです。主は真実なお方です。そして主は正しく裁いてくださる方です。浦上のキリシタンたちの歴史を見てきましたが、そこには、主を愛して従う者に対する主の真実を見ることができます。彼らは待たされました。しかし主は遅れることなく、ご自身の約束の時に、彼らを迫害から救い、助け出されました。主は決して裏切らない方、約束を守られるお方、真実なお方です。
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2019年02月26日

四十五  浦上四番崩れ9−悲しみを喜びに

悲しみを喜びに
 この高谷家は、もともと浦上の庄屋で、キリシタンの召し捕りや吟味のあるごとに自ら手伝い、毎年正月には浦上の人々を召し出して絵踏みを実行していた家です。しかしキリシタン流配の処分を出した後、当主は死亡し、長男は懲戒のため高島炭鉱に送られている時、ガス爆発により死亡しています。その結果、未亡人はわずか12歳の病児を抱えて生計を立てるのに困り、ついに敷地から邸宅に至るまでの広大な土地と建物を残らず競売に出して、村を立ち退くことになったのです。
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四十五  浦上四番崩れ9−悲しみを喜びに

悲しみを喜びに
 そこで浦上に仮聖堂を建てる計画を作り、まずは適当な場所を探しました。そこで、瓦ぶき平屋で、200人ぐらい収容できる離れ座敷を仮聖堂にあてました。しばらくは、ここに、大浦からポアリエ神父が通っていましたが、聖務が忙しくなると、ここに住み込んで奉仕されました。そして1880年、高谷庄屋屋敷跡を買い取って補修し、仮聖堂としました。
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2019年02月25日

四十五  浦上四番崩れ9−悲しみを喜びに

悲しみを喜びに
 「旅」から帰ってきた浦上のキリシタンたちには、切なる願いがありました。それは神の家、つまり聖堂を立てることでした。彼らは、ミサのために毎日曜日ごとに、大浦天主堂まで歩いて通わねばならなかったのです。彼らは、ミサのために毎日曜日ごとに大浦天主堂まで歩いて歩いて通わねばならなかったのです。彼らは、それでもうれしくてたまりませんでした。けれども、その日の糧を得るにも、きゅうきゅうとしていた信者たちにとって、それは時間的にも大きな困難でした。
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2019年02月24日

四十五  浦上4番崩れ9−悲しみを喜びに

試練を用いる主
 愛である方、主イエスへの彼女たちの持っていた信頼、この信仰が祈りと共に働いて、多くの痛んでいた小さな者たち(孤児や捨て子)を助ける主の救いの手として働く道へと導かれていくのです。私たちの人生の中にも、いろいろな試練が許されます。しかし試練が私たちを主から離すのではないということを、浦上のキリシタンの歴史を見るときに思わされます。むしろ試練は、私たちの信仰を練り清めて、私たちに主が用意されている道へと、私たちを導いてくれるのです。主は愛の方、そして最善以外、私たちに決してなさらないお方だからです。 
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2019年02月23日

四十五  浦上4番崩れ9−悲しみを喜びに

試練を用いる主
 250年にも及ぶ弾圧と迫害の後に、やっと6年間農民流配から解放されて信仰を守りの自由を得たと思った途端、赤痢、台風、天然痘という人間的に見れば 悲惨と思えることの連続の中で、彼女たちは、神を呪ったり恨んだりするのではなく、もちろん運命っだからと言ってあきらめるのではなく、むしろその中で、神が用意されていた最善の道を乱していったのです。
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2019年02月22日

四十四  浦上4番崩れ8−孤児院

孤児たちのための働き
子供を泣かすな」と言った弟の言葉を思い起こしながら マツやマキやほかの娘たちと相談して、孤児を育てることにしましたマキやマツたちは、孤児を養うことが天職と考えました。ド・ロ神父もこのことを聞くと、心の底から大喜びをして、フランスでの孤児院のやり方のまねて、具体的にいろいろと教え、経済的な助けもしました。マキたちの共同生活は、初めからただの休憩所ではありませんでしたが、こうしてやがて「十字会」と名付けられて淳修道会となります。
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2019年02月21日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

孤児のための働き
 守山マツは津和野に流されていた時、殉教していった弟の裕次郎が臨終する時に言い残していった言葉を忘れることがありませんでした。裕次郎は姉のマツに手当てをして貰いながら,兄の勘三郎のてを握って、最後に、こう言って天に帰ってきたいったのです。「おら、もうじき天主さまから召される如(ごと)ある。兄と姉は生き永らえて浦上に帰れるごと思われるばい。その時にはキリシタン法度の高札は取られ、大声で祈りができるに違いなか。浦上に帰れたら、一人は結婚してその子の一人ば神父様にしてくれろ、やっぱり教理をよう知っとらんと、信仰も弱かけん。子どもば泣かせなさんな。こどもばかわいがってくれよ・・・」
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2019年02月20日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

孤児のための働き

天然痘の看護も収まって、浦上に帰ってきたマキの腕の中に、一人の赤ん坊が抱かれていました。名はタケと言います。天然痘で両親が死んだ孤児でした。それまで影の尾島にあった「孤児院」が閉鎖されたので連れてきたのです。孤児は、タケだけではありませんでした。当時、日本では各地で捨て子が多くいました。長崎でも相次ぐ災難で、孤児や捨て子は、次々に出ていました。
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2019年02月19日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院 


孤児のための働き
赤痢が下火になったころ、台風が襲い、大暴風が浦上のバラックを吹き飛ばしていきました。それが片付いたと思ったら、今度は港の入り口の島々(蔭の尾島)に天然痘がはやりました。病気を恐れて、家族の者でさえ、患者を見捨てて逃げるほどでした。村にも町にも、親を疫病で奪われた孤児たちの姿がちらほら見えました。

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2019年02月18日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

ド・ロ神父と篤志看護婦
ド・ロ神父は毎夜、大浦天主堂に戻りました。 マキたちは家に帰ると家族に伝染させる心配があったので、どこかに合宿することにしました。その時高木仙右衛門が、自分の小屋を提供しました。そこで4人は共同生活を始めました。夜遅く合宿しているこの部屋に帰って来ても、そこには、ござと板の上に敷いた布団が一枚あるばかりでした。食器は茶碗がたった一つ、何か飲めるものを作って、その茶碗で娘たちは回し飲みしました。そして心を合わせて一心に祈ったのです。神父は娘たちに医学を教えただけではなく、祈りを教え、聖書のみ言葉を教えることにも力を入れました。こうして次第に修道会の生活に近づいて行きました。
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2019年02月17日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

ド・ロ神父と篤志看護婦
この救護活動を見て心動かされ、すぐにその案内と手伝い、患者の身の回りの世話を申し出たのが岩永マキでした。マキが動いたのを見ると、ほかにも守山マツ、片岡ワイ、深堀ワサという女性たちが共に立ちあがりました。彼女たちは皆、「旅」の中で迫害を受け、拷問にかけられて辛酸をなめてきた人たちでした。篤志看護婦となったこの4人の娘たちは、神父から看護法を教えてもらい、恐ろしい伝染病がはやっている町々村々を回り、大勢の人を助けました。
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2019年02月16日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

ド・ロ神父と篤志看護婦
 浦上村民の窮状を見たド・ロ神父は、毎朝4キロあまりの道を、薬箱を提げて大浦から浦上に通い、病院の診察投薬に従事しながら、予防措置を教えて回りました。ド・ロ神父は、ただ脈をとり、薬を与えるだけではなく、患者の一人一人に神のことばを語って、慰め励ましたのです。
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2019年02月15日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

浦上を襲う天災
キリシタンたちが、浦上に帰ってきた翌年の1874年夏、まず赤痢が流行します。そこへ追い打ちをかけるように8月21日、台風が来襲し、長崎は大被害を受けます。前年建てたばかりの浦上のバラック長屋は、総倒れとなり、昔からあった家も含めて、全戸数の半分は倒壊しました。1年かけて辛苦の中で育てた農作物は、風に吹きちぎられ、収穫は皆無となりました。米価は暴騰し、食べ物にも困った浦上農民に、赤痢はますますひろがりました。そして浦上だけでも210人の患者が出ました。しかし、この悪条件の中で、赤痢という恐ろしい疫病を210人の患者で食い止め、8人の死者にとどめたのは、ド・ロ神父と彼を助けた岩永マキら篤志看護婦の献身があったからです。
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2019年02月14日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

浦上を襲う天災
彼らには、本当に何もなかったのです。あばら家に住みつつ、港に行って皿のかけらを拾い、それで荒れ果てた畑を耕しました。近くの村に日雇いに出て、イモやキュウリの苗をもらいながら、働き始めました。こうして1年が過ぎ、やっと畑からもいくばくかの実りが収穫され、生活もようやく一息つき、落ち着いたと思ったところへ、疫病や天災が折り重なって、浦上を襲ったのです。
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2019年02月13日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

浦上を襲う天災
キリシタンたちが帰ってきた時、浦上の地は荒れ果てていました。浦上四番崩れから帰ってきた人の中で、原子爆弾が落とされた後も生き残った老人が10人ばかりいましたが、原子野に翌年雑草が一面に茂ったのを見て、流罪から帰った時によく似ていると言いました。
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2019年02月12日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

大声でオラショできる
彼らの生活は極貧を極めました。けれども、彼らの内にある喜びは、その貧しさによっては、決してけすことのできないものでした。彼らは、毎日毎日大声でいのったのです。主イエスに感謝しながらオラショをささげました。日曜日には、大浦天主堂に行って、ミサにあずかりました。8キロばかりあるのですが、彼らは少しも遠いとは思いませんでした。
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2019年02月11日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

大声でオラショできる
もちろん家財道具などは、全くと言っていいほどありません。このように軒の傾いたあばら家と狭いバラック長屋ではありましたが、彼らはとても喜んでいました。それは、主の恵みによって、キリストへの信仰を守り通して故郷に帰ってくることができた上に「大声でオラショ(祈り〉することができる」時世になった事が、なによりもうれしかったからです。

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2019年02月10日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

大声でオラショできる
  流されていた3394人のうち1900人が、ついに浦上に帰ってきたのです。しかし、そのうち736人には、家がありませんでした。「旅」の間に壊されてしまっていたのです。残りの1164人には家はあったのですが、家とは名ばかりの、壁も瓦も落ちたあばら家になっていました。もちろん畳や建具などは、全くありませんでした。そこで、家なしの人のために竹の久保の官有林からキリシタン出した木材で、一人当たり一坪の3,4件続きのバラック長屋を建てて、ともかく落ち着かせることになりました。
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2019年02月08日

四十三  浦上四番崩れ7−天災

1873年3月14日、ついに彼らは流配(るはい)地から浦上に帰ってきたのです。彼らのキリストへの信仰が、日本のかたくなな政府に勝利したのです。しかしその時には、613人はすでに流された地で殉教し、亡くなっていました。また6年余りにわたってなされた残酷な拷問の中で。1011人は転んでしまったのです。この数字を見ても、彼らのへの迫害がどんなに厳しく残酷だったかがしのばれます。彼らの大部分は帰郷後、再び元の信仰へ戻りました。
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四十三  浦上四番崩れ7−天災

キリストへの信仰を捨てない。ただそれだけの理由で「一村総流罪」となり、西日本諸藩に流された浦上キリシタンたち。しかし主は、彼らが示したキリストへの愛を忘れず、彼らの主イエス・キリストへの従順を通して、キリストに対して全く心が閉ざされていたこの国に、信仰の自由を与えてくださいました。
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2019年02月05日

四十二  浦上四番崩れ6−信仰の自由

信仰の自由
 さすがに、こんな異国に地で 浦上の名前を聞こうとは思ってもいなかったので、最初は日本の内政問題であると突っぱねていた岩倉大使を中心とする使節団も、キリシタン邪教政策を修正せざるを得なくなったのです。そして1873年2月24日、キリシタン禁制の高札は撤去されたのです。 ここに、1614年より始まったキリシタン禁制は262年ぶりに効力を失い、日本にキリストを信じる信仰の自由が与えられたのです。  3月14日、各地に流されていた浦上のキリシタンたちは、釈放され帰村することになったのです。

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2019年02月04日

四十二  浦上四番崩れ6−信仰の自由

信仰の自由
 ちょうどそのような時、1871年12月24日に岩倉具視を全権大使とする一行がアメリカからヨーロッパ各国へ、不平等条約改正の交渉のために行きました欧米のどこの国でも、必ずキリシタン迫害の事が持ち出され、「キリシタンを迫害するとは野蛮国である」厳しく詰め寄られ、信仰の自由を条約に記すようにと、非常に強く迫られました。特にベルギーのブルッセルでは、市民たちが大使らの馬車に押し寄せて、浦上キリシタンの釈放を叫び、「流されている浦上キリシタンを牢から出せ」と言ってやめませんでした。
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四十二  浦上四番崩れ6−信仰の自由

信仰の自由
各地に流された浦上のキリシタンたちは、津和野と同じように激しい迫害の中で、主にすがり、聖霊さまの助けを受けながら耐え忍んでいました。彼らの頭にはキリストを信じる信仰を、命をかけても守ろうという思いしかなかったことでしょう。しかし、そのことは彼らの知らないところで「信仰の自由」という世界的な問題となっていたのです。日本は、この迫害のゆえに諸外国から抗議を受けていました。流されたキリシタンたちに対する拷問は、外国使節団の耳に入り、諸外国の新聞や雑誌で報道され、批判され、どこの国でも沸き返るような世論となっていました。
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2019年02月03日

四十二  浦上四番崩れ6−信仰の自由

子供の単純な信仰
 ハライソへ行ける、というのがただひとつの望みであり、最も大きな喜びだったのです。子どもの信仰は、このような単純なものでした。しかし、単純だからこそ、余計に堅かったといえるでしょう。またある時は、肥えくみに来た近くの農民たちが、子どもを喜ばせようとして、無くセミを捕まえて子供たちのいる牢に投げ込むと、子供たちは大喜びでそれを捕まえると、鳴かせて楽しむどころか、そのまま口に入れて、ばりばりたべてしまうのです。 子どもたちは、そんなにも飢えていましたが、信仰に固くたっている母にくっついて信仰を守り通しました。
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