2018年12月28日

三十九 浦上四番崩れ3ー改心戻し

 ところが白州へ出てみると、案に相違して、「いずれ厳しく吟味いたすので、そのとき呼び出すまで自分の家におれ」と言い渡されて奉行所から追い出されました。というのは幕府が倒れて、天皇政治が始まろうとしており、奉行所はそれどころではなかったのです。
 翌11月9日に、15代将軍慶喜は大政を奉還し、浦上事件を解決できないまま、幕府は倒れました。
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2018年12月27日

三十九 浦上四番崩れ3ー改心戻し

 それで仙右衛門にできたのなら、自分にもできないはずはないと、女性5人を含む38名の者が庄屋の門をたたいて「改心戻し」を申し出たのです。
 改心戻しとは、一度転んで改宗しキリストを捨てたことを取り消して、元のキリストへの信仰に戻ることです。
 ところが庄屋は、怒りにわなわなと震えて、大声で怒鳴りつけました。
「この大ばかども。あれだけの責め苦で転んだ者が、改心戻しをすれば、その十倍もひどい責め苦にかけられ、しのぐことなどできるわけがない。その願いは取り上げるわけにはゆかぬ」
「ぜひに願いを、いたしまする。もし庄屋様が受け付けてくださらないならば、これから長崎の代官に直訴をいたしまする」
 庄屋はやむなく、その夜のうちに、彼らの名簿を添えて長崎代官に届けました。数日後、彼らは奉行所に呼び出されました。殉教覚悟で、彼らは出頭しました。
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2018年12月26日

三十九 浦上四番崩れ3ー改心戻し

 転んで先に帰った人たちは、家族から「信仰を捨てた者はきっとテングがついたに違いない。家に入れると一緒にテングもついてきて、みんな転んでしまう。だから家に入れるな。もしあなたが家にいるなら私が出る」と言われ、家にも入れてもらえませんでした。かといって外にもおられず、天主を捨てたという思いで、身一つ置くところなく、昼も夜も山の中で、3日3晩泣いていました。そこへ仙右衛門が帰ってき、まるで凱旋将軍のように村人が迎えていました。
 平生は強よそうに見え、教理もよく知っている伝道士たちが、みんな転んでしまったのに、無学で弱々しく見えた仙右衛門が、ひとり信仰を守り通したので、転んだ連中は、恥ずかしくてたまらなくなりました。
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2018年12月25日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

彼が一人だけ転ばずに信仰を守り通せたのは、特別に主にすがり、自分の弱さを覚えて祈っていたからでした。いやむしろ、彼は弱かったからこそ、断食までして、主イエスさまと聖霊さまに、真剣に助けを求めたのです。そしてその祈りは、主に聞き届けられ、彼はどんなに目の前で、ひどい責め苦を見せられ、他の者たちが目の前で、ひどい責め苦を見せられ、他の者たちが目の前で次々に転んでいっても転ばなかったのです。主は、ほかの誰でもなく、字も読めず無学であっても、祈り、主にすがる者に助けを与え日本の信仰の自由を勝ち取らせてくださったのです。
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2018年12月24日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

祈りによって

 仙右衛門は、転んで牢を出された人より3日遅れて、転ばず信仰を守り通し、村(乙名)預けということで、浦上の村に帰されました。その時村の人が仙右衛門に、どうしてあんなひどい拷問をしのぐことができたのですかと聞きました。「どんな強い人間でも、あんな目に遭わせられたら、人間の力だけでは、とてもしのぐことができません。私が転んだら天主さま、また日本のたくさんの殉教者に対して申し訳ないと思い、断食の祈りをささげ、聖霊さまのお助けを祈っておりました。聖霊さまのお力で、しのげたのでございましょう」と仙右衛門は答えました。
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2018年12月23日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右エ門

祈りによって

 ただひとり高木仙右エ門は、転びませんでした。 この人は農民でした。字は読めず、特別な学問を受けたわけでもなく、見た目には弱そうな人で、仲間さえ、どこからそんな勇気が出てくるのか信じられないくらいでした。彼は、ただ単純に、教えられたことを信じて守っていただけでした。毎金曜日にはキリストの御受難を思って断食をし、祈っている人でした。
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2018年12月21日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右エ門

過酷な拷問
駿河問いという責め苦(「ドドイ」とも呼ばれる)を受けるため、6人が選ばれました。これは両足を背中に反らせて、両足首と両手首、それに首、胸にも縄をかけて、それを背中の一ヶ所にくくり寄せ、その綱を梁(はり)に巻き上げ、体を弓のように反らせて、つるすのです。コマにように勢いをつけて、振り回し、次によりを戻して逆に回転させます。そして下に立った役人が棒とむちで散々に打ちたたきます。するとほとんど気絶してしまいます。それから地面に引き下ろして水をかけ、正気に戻して繰り返すのです。水をかけると縄は、短く縮み、肉に食い入り、皮膚は紫色に変わります。そして、また気絶してしまいます。こうして6人は門口に引き出され、捨て物のように転がされました。
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2018年12月20日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右エ門

過酷な拷問
駿河(するが)問いという責め苦
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2018年12月19日

三十七  浦上四番崩れー捕縛

 10月5日、68人は再び小島牢から桜町牢に移されましたが、その時には彼らは83名となり、2坪ちょっとの4畳半の牢に38人が詰め込まれるありさまでした。それでも彼らは、責められても、苦しめられても、信仰を、この時までは守っていたのです。 けれども桜町牢での拷問は凄惨(せいさん)を極め、その結果、ついに高樹仙右エ門ただ一人を残して、82人が転んでしまうのです。
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2018年12月18日

三十七  浦上四番崩れー捕縛

 そうしている間にも、「入牢者には拷問を加えない」という外交団との約束は破られ、長崎では捕らえられた68人に説得やひどい拷問が加えられていました。また、彼らが、捕らえられた後にも、浦上では、死人が出たとき坊さんを呼ばない人たちはが、次々に桜町牢に入れられていました。
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2018年12月17日

三十七  浦上四番崩れー捕縛

しかし長崎奉行は、浦上の農民たちが囚人たちを奪い返しに来るかもしれないと思い、2日後には小島に新牢を作り、そこに移しました。そこから仙右エ門、与五郎、寅五郎、又市などは、取り調べのために、たびたび西役所に引き出されました。一方、キリシタンであるという信仰の問題だけで捕縛投獄されたことに在留外国人は衝撃を覚え、各国の領事は奉行に抗議しました。更に問題は幕府と各国外交団に移され、毎日のように議論されました。しかしキリシタン邪教観は強く、なかなか解決しませんでした。
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2018年12月16日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

捕縛
 1867年7月15日の早朝3時ごろ、大雨をついて捕手たちは浦上の地に踏み込み68人が捕らえられました。 これが「浦上四番崩れ」の始まりです。彼らは桜町牢(ろう)に入れられました。この桜町牢は、もともと教会のあったところですが、1614年の迫害の時に壊され、その後に牢獄が作られて、迫害時代に多くの神父や信者たちが、苦しみをしのぎ、殉教へ旅立っていったところです。
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2018年12月14日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

 代わった明治新政府は、神道を中心に天皇政治を目指したため、キリシタンに対しては迫害の手を緩めるどころか、ますます激しくなりました。そのため、キリシタンへの迫害と弾圧は、外交上の問題となりました。 明治6年、すなわち1873年になって、やっとこの問題は解決し、キリストを信じることが認められたのです。しかしそのためには「浦上四番崩れ」と言われている、明治政府によるキリシタン弾圧の中での厳しい迫害と殉教を通過しなければならなかったのです。
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三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

 「ワタシノムネ アナタトオナジ」この言葉をもって復活したキリシタンたちは、うれしくてうれしくてたまりません。それまで隠れ続け、待ち続けてきたキリシタンたちは、毎日のように天主堂に通い、熱心に祈り、み言葉を学びました。けれどもまだ、日本はキリスト教を禁止していました。その結果、浦上のキリシタンたちは、ついに捕らえられ、牢に入れられてしまいます。まず最初に、指導者の68人が捕まりました。そして、この問題を解決できぬまま、江戸幕府は倒れてしまうのです。
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2018年12月13日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

 これから「浦上四番崩れ」について書いていきたいと思いますが、その前に今までに書いてきたことを、簡単にまとめておきます。
激しい迫害の中で潜伏したキリシタンたちは、バスチャンの残した予告預言を信じて7代250年の間、罪の告解を聞いてくれる神父が来るのを待ち続けていました。そして、預言通りに、7代250年たった時に、神父がついにやってきたのです。
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2018年12月12日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

浦上四番崩れ

 しかし奉行は「これは純粋な内政問題なので外国の指図を受けるものではない。ことに200年来も守られてきたキリシタン禁教命令の法令を止めることは、幕府だけがすることで、地方の問題ではないから、どうか江戸幕府へ談判してほしい」とこたえました。その結果、この問題は江戸幕府と上記各国等による外交団との間に移され、外交団は毎日のように、この問題をもって幕府に迫りました。しかし徳川250年間の間に培われたキリシタン邪教観は根深くなかなか解決はしなかったのです。そして、キリシタン事件を解決できないまま、幕府は瓦解してしまうのです。
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2018年12月10日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

浦上四番崩れ

 その数日後に来埼したアメリカ公使ワルケンブルグも奉行に抗議し、牢内にいる信徒たちを見舞いました。大国アメリカの全権公使が、農民信徒たちを親切に慰問したことは、長崎奉行をずいぶん驚かせたようです。領事たちは「日本が宗教を許さないということは、野蛮国であるという証拠であり、このたびの事件が本国へ報告させられたならば、日本の立場は非常に悪くなるでしょう。対等の条約が結べなくなるかもしれません。ですから早急に信者を放免し、更に進んでキリシタン禁教命令の高札を取りのける方が。りのける国家のために良いでしょう」と注意しました。
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2018年12月08日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

浦上四番崩れ

 1867年7月15日の早朝3時ごろ、大雨をついて安藤弥之助の指揮する捕手たちが、数隊に分かれて浦上の秘密聖堂や主だった信者の家を襲い、踏み込みました。秘密聖堂は散々荒らされ、68人が捕らえられて桜町牢に入れられました。これが「浦上四番崩れ」と言われている大迫害の発端です。こうして浦上で、再び迫害が始まったのです。キリシタンであるという信仰の理由だけで、このような捕縛投獄が行われたことは、居留外国人たちに大きな衝動を与えました。そしてこの事件は、その日のうちに外交問題となりました。 その日(7月15日)の午前11時、プロシア領事が、翌16日にはフランス領事レックスが、その翌日17日は、ポルトガル領事ロレイロが奉行所を訪ね、抗議しました。
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2018年12月07日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

庄屋があわてたのも無理はありません。「それでは聖徳寺との縁を切りたいものの名簿を出せ」と言ったところ、本原郷400戸、家の郷100戸あまり、中野郷100というように、元来の仏教徒と裕福ではあるが信仰心の薄かったキリシタン30戸だけを除いて、村人のほとんど全部が名を連ねたのです。これで、ついに浦上村の人々がキリシタンであることが、明るみにでたのです。そこで長崎奉行所では、たくさんの間者を浦上に潜入させ名簿を作り、主だった指導者たちのことや4か所の秘密聖堂の坪数、間取りまで詳しく調べさせていました。
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2018年12月03日

キリシタンの復活3−自葬問題

庄屋は「今の坊さんたちが嫌いなら、お坊さんを代えてやる」と言いましたが「どなたであろうと坊さんは要らないのです。お寺とは縁を切りたいのです」と答えました。これは大変なことでした。なぜなら死人が出た時、坊さんを呼んでお経を上げるというのは、祖法(徳川家康、秀忠、家光三代の間で決まった背くことのできない大事なおきて)だったのに、それを「嫌です」と言ったのですから。

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2018年12月02日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

翌6日、平の宿の久蔵が死んだときには、聖徳寺にも知らせずに自葬してしまいました。それを知った聖徳寺が、庄屋の訴え出て問題になってしまいますその問題になっている真っ最中4月14日、平の三八の母たかがしにました。今度は庄屋が気を利かせて坊さんを連れてきましたが、家の者が承知しないで、お経をあげるのを断り、自葬しました。
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