2018年11月19日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見

 プチジャン神父が、祭壇の前でひざまずいて祈っていると、天主堂の中にも窓の外にも、役人らしい人影がいないのを確かめてから、彼らの中の3人の婦人が、プチジャン神父に近づいてきました。そしてその中の一人のイサベリナゆりが、自分の胸に手を当てて、神父の耳元にささやいたのです。 「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ(ここにおります私たちは皆、あなた様と同じ心でございます。)」神父は驚いて聞き返しました。「本当ですか。どこのお方です。あなたがたは」「私たちは皆、浦上の者でございます。浦上ではほとんど皆、私たちと同じ心を持っております」この言葉を耳にした時のプチジャン神父の驚きと喜びは、今の私たちには、到底察し得ないでしょう。この時、250年にわたって地下に潜伏していた日本のキリシタンたちが、再び復活したのです。
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2018年11月18日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見

 1865年3月17日、金曜日の昼下がり、フランス寺の前に十数名の男女の農民がやって来ました。フランス寺の扉は鍵が掛けられてしまっていました。彼らにはフランス式の掛け金の開け方が分からないので、ガチャガチャとさせていると、プチジャン神父が急いでやってきて開けてくれたのです。神父が聖所の方に進んで行くと、この十数名の参観人の一行は物珍しげに、きょろきょろしながら後ろからついて堂内に入って行きました。
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2018年11月17日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

 けれども、神父はあきらめませんでした。きっと、長崎にはまだキリシタンたちが残っているに違いないと信じて、彼らと会える日を待ち望んでいたのです。それで、プチジャン神父は、長崎ばかりでなく、その郊外辺りにも、たびたび出かけて、キリシタンらしき家はないかと訪ねて歩いていたのです。ある時には、子供にお菓子を与えて、食べるときに十字を切りはしないかと気を付けて見てみたり、またある時は、わざと馬から落ちて、もしもキリシタンなら思わず助けてくれはしないかと試してみたり、いろいろとやってみましたが、みんなあてが外れて、信者らしい人とは出会えませんでした。
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2018年11月16日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

1865年2月19日、フランス寺と呼ばれていた大浦天主堂の献堂が行われました。 プチジャン神父は、ひそかに期待していたことがありました。それは、きっと昔からのキリシタンが、長崎には残っていて、天主堂ができれば、すぐにでも名乗り出てくるだろうと、楽しみにしていたのです。
ところが、献堂式の日には、日本人は誰も姿を見せませんでした。フランス領事から長崎奉行に案内状は出されていましたが、下役が、代理として来ただけでした。それで、彼らは大いにがっかりしてしまいました。
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2018年11月15日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂  

大浦天主堂ーフランス寺

フューレ神父は,その翌年に帰国しますが、代わりに赴任したプチジャン神父は、日本人を使って、日本の材料で工事を進め、ついに1864年12月29日に落成し、翌1865年2月19日に献堂します。この天主堂は、北に向かって、二十六聖人が殉教した西坂に向かって真向かいに建てられているので26聖人 日本二十六聖人教会、あるいは二十六聖人殉教者堂と名付けられました。しかし町の人々は、当時フランス寺と呼んでいました。今は地名にちなんで大浦天主堂と一般に言われています。
この大浦天主堂で、浦上信徒の発見がなされたのです。
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2018年11月14日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

これによって、今まで禁止されていたキリスト教信仰が、外国人居留地に限って公認されたのです。そしてこの結果、長崎にも天主堂が建てられることになりました。
大浦天主堂ーフランス寺
1863年、フランス人のフューレ神父は、大浦の南山手に天主堂を建てるための工事に着工します。
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2018年11月13日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

鎖国破れる

 1853年にペリーが浦賀に来て、鎖国を続けていた日本は、外からの圧力の力によって、目を覚まされることになります。そして5年後の1858年(安政5年)、日本はアメリカ、ロシア、イギリス、フランスと修好条約を結び、長崎港などの5港が開港されます。その結果、外国人居留地ができるようになりました。ここに、ついに200余年にわたって続いた日本の鎖国は破れたのです。この修好条約の中には「居留民(外国人)は自国の宗教を自由に信仰いたし、その居留の場所へ、寺社(自分の宗教の礼拝堂)を立てるも妨げなし」と書かれていました。
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2018年11月12日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

実際に、1867年に始まった「浦上4番崩れ」と、それに続いて起こった大村領木場の三番崩れ、悲惨極まる五島崩れ、外海や伊王島、蔭の尾島、大山、善長谷などの離島へき地にまで及んだ残酷な迫害の中で、殉教する者たちも出ました。 キリストの信仰の自由を勝ち取るために、どうしても、このような厳しい季節を、忍びながら通過しなければならなかったのです。
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2018年11月11日

三十四  キリシタンの復活1−大浦天主堂

7代250年間、バスチャンが残した予告預言を握って、コンヘソーロがやって来ることを信じて持ち続けた浦上のキリシタンたち。その予告通りに、7代目に当たる幕末に黒船がやって来て、大浦天主堂が建ち、神父が来て、キリシタンの復活が起こるのです。しかし、彼らが信じて待ち続けた、大声でキリシタンの歌を歌って歩ける喜びを得るためには、もうしばらくの時と、迫害と殉教という困難と試練が必要だったのです。 この国が、鎖国を解き250年以上も続けたキリシタン弾圧と迫害を止めて、キリストを信じる信仰の自由を得るためには、再び殉教の血が、流されなければなりませんでした。
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2018年11月09日

三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの4つの予告預言に

また長崎港の近くに善長谷というカトリック信者の村がありました。ここは、もともとは善定谷といいましたが、左八という水方が引率して家族と2人の独身者が移住してきたのです。左八は臨終の時、各戸の家頭を枕元に集め、諭して言いました。「やがて黒船に乗ってくる人と一つになれ」とこのように「7代たったらコンヘソーロがやってやって来る」という預言の言葉は、潜伏しているキリシタンたちにとって、とても大きな希望となっていたのです。 そして、その予告預言の 通りに、7代目に当たる幕末に黒船がやって来、キリシタンの復活が起こるのです。

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2018年11月08日

三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの4つの予告預言

外海の形右衛門
 「牛肉も食べられる世にはなるが、それは金持ちや上っ方ばかりで、我々貧乏人の口には乗るまい。その日が近づいたというのに、このわしは何と
不幸なんじゃ。コンヘソーロに会(お)うて、コンヒサンを申すこともできないで死んでしまう。しかし、お前ら若いものは、その時代を見ることができるのじゃ」 ところがある日、大きな黒船がやってきたと言って人々が騒いでいるのです。彼は小高い丘に登って、そのところを打ち眺めました。「これじゃバスチャン様の預言の黒船じゃ。じゃが、わしはコンヘソーロに会うて、コンヒサンを申すまでは生きてはおらぬ」そう言って、彼は涙をこぼしたのです。
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2018年11月07日

三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの予告預言

バスチャンの4つの予告預言

バスチャンが残した4つの予告預言とは、次のようなものでした。 一、お前たちを7代までは、わが子とみなすが、それから後はアニマ(霊魂)の助かりが困難になる。 二、コンヘソーロ(告解を聞く神父)が大きな黒船に乗ってやってくる毎週でもコンヒサン(告解)ができるようになる。三、どこででも大声でキリシタンの歌を歌って歩ける時代が来る。 四、道でゼンチョ(ポルトガル語で教外者)に出会うと、先方が道を譲るようになる。 キリシタンたちは、この4つの預言の言葉を、心に大切に抱きながら、告解を聞いてくれる神父がやって来て、大声でオラショ(お祈り)することのできる日を、7代250年間、信じて待ち続けたのです。 そして、預言が成就する日が、やって来たのです
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三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの4つの予告預言  

外海の形右衛門
バスチャンから7代たった時に、長崎の外海というところに形右衛門という1人の老人がいました。彼は信仰篤い人で、コンヘソーロ(神父)が来るのを、ずっと持っていました。彼は、涙を流しながら、こう言っていたのです。「黒船の渡来も遠い事ではないぞ、コンヘソーロがやって来て、コンヒサンを聞き罪科の赦しを頂ける日は近づいた。オラショも教えも大声でできるようになるぞ。」

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2018年11月06日

三十三  キリシタンの潜伏5−バスチャンの4つの予告預言

 信徒発見がされるまでの7代250年間、信仰を守り通した浦上のキリシタンたち。 彼らが信仰を継承し、守り続けることができたのは、帳方(ちょうかた)・水方(みずかた)・聞役(ききやく)というしっかりとした地下組織と日本人伝道師セバスチャンが残した「バスチャンの日繰(ひぐ)り」があったからです。 そして実は、もう一つとても大切なことがあります。それは、バスチャンが残した4つの予告預言でした。
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2018年11月05日

三十二  キリシタンの潜伏4−バスチャンの日繰り

断食の祈りを通して

 たしかに、主は祈る人々を通して働いて下さり、祈りを通して、人々を祝福してくださるのです。実は、バスチャンが残したのは「日繰り」だけではありませんでした。彼も預言者でしたが、処刑される前に、4つのことを予言し予告しました。そして、人々は、この預言を大切に伝承していったのです。
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2018年11月04日

三十二  キリシタンの潜伏4−バスチャンの日繰り

断食の祈りを通して

 このバスチャンについての伝承が、どこまでしんびょう性を持つものかは何とも言えませんが、確かに「バスチャンの日繰り」が今も残っており、それがキリシタンたちの信仰の継承にとっては、どれほど大きな力であったかということは、決して否定することのできない事実なのです。 そしてそれは、バスチャンの切なる断食を伴った祈りを通して、主が与えてくださったものだったのです。1人の伝道士の切なる祈りが、その後250年間続いた迫害の中で、人々の信仰を支える力となりました。一人の真実な祈りは、主の心を動かし、その祈りの答えは、多くの人々の信仰をも 引き上げ建て上げていったのです。
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2018年11月01日

三十二  キリシタンの潜伏4−バスチャンの日繰り

ジワンとバスチャン
 バスチャンは、ジワンという神父の弟子になって、ともに伝道していました。所がある時、ジワンは突然、国に帰るといって
姿をけしてしまったのです。バスチャンは、すでに日繰りの繰り方を、ジワンから教えられていましたが、まだ十分には納得していませんでした。それで、彼は21間断食をして「もう一度ジワンが帰ってきて教えてください」と主に祈ったのです。するとどこからかジワンが帰ってきて教えてくれたのです。そしてバスチャンと分れの水杯をして、ジワンは海上を歩いて遠くへ去って行ったと言われています。  


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