2018年10月29日

三十二  キリシタンの潜伏4−バスチャンの日繰り

 7代250年の間、地下に潜伏し、信仰を守り通した浦上のキリシタンたち。彼らが信仰を守り通すことができたのは、一つには帳方・水方・聞役という指導系統がしっかりしている地下組織をもっていたからでした。 そしてもう一つが、日本人伝道師バスチャンが残した「バスチャンさまの日繰り」と言われている1634年の太陰暦による キリシタン暦です
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三十二  キリシタンの潜伏4−バスチャンの日繰り

 この暦があったので、受難週や復活祭、聖霊降臨日や降誕節などの 日を繰り出すことができたのです。この「日繰り」の存在は、長い迫害下の中で、浦上はもとより、外海・五島・長崎地方のキリシタンたちが、信仰を伝承しえた力の一つであったと言っても、決して過言ではありません。それほど大きな影響を与えた、この「日繰り」がどのようにしてできたかを、今回は書きたいと思います。

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2018年10月28日

三十一  キリシタンの潜伏3−浦上の地下組織

バスチャンの日繰り

 彼は「バスチャン様の日繰り」という、1634年の太陰暦によるキリシタン暦を残しました。つまり、受難週や復活祭、聖霊降臨日や降誕節などの日を繰り出せる暦を残したのです。 長い迫害下の中で、浦上はもとより、外海・五島・長崎地方のキリシタンたちが、信仰を伝承しえた力の一つは、この「日繰り」であったと言っても、決して過言ではないのです。それほど、この「日繰り」の影響は非常に大きなものがあったのです。
ではどのようにしてこの「日繰り」ができたのでしょうか。それについては、次章で書きたいと思います。
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三十一  キリシタンの潜伏3−浦上の地下組織

バスチャンの日繰り

 彼は「バスチャン様の日繰り」という、1634年の太陰暦によるキリシタン暦を残しました。つまり、受難週や復活祭、聖霊降臨日や降誕節などの日を繰り出せる暦を残したのです。 長い迫害下の中で、浦上はもとより、外海・五島・長崎地方のキリシタンたちが、信仰を伝承しえた力の一つは、この「日繰り」であったと言っても、決して過言ではないのです。それほど、この「日繰り」の影響は非常に大きなものがあったのです。
ではどのようにしてこの「日繰り」ができたのでしょうか。それについては、次章で書きたいと思います。
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2018年10月26日

三十一  キリシタンの潜伏3−浦上の地下組織

バスチャンの日繰り

 この地下組織のほかにも、もうひとつ彼らが、250年もの間、信仰の明かりを、ともし続けることができた大きな原動力があります。 それは神父たちが殉教してしまった後に、信徒を指導していた日本人伝道士バスチャンの存在でした。彼の洗礼名はセバスチャンと言いましたが、略して
バスチャンと呼ばれていました。彼の本当の日本名は、今も分かっていません。
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2018年10月25日

三十一  キリシタンの潜伏3−浦上の地下組織

 浦上の地下組織

彼らが、7代250年もの間、キリストへの信仰を守り通すことができたのには、2つの大きな理由があると思われます。その一つは、彼らの作った「地下組織」でした。この地下組織は、次のような三役で構成されていました。

1、帳方(ちょうかた)・・・浦上に一人おり、バスチャンの日繰り(ひぐ)りを所持していて、1年の祝日や教会行事の日を繰り出す。また、祈りや教義などを伝承する。
2、水方(みずかた)・・・・各郷に一人おり、帳方から伝えられた祝日や祈り、教義を聞役(ききやく)に伝える。また洗礼を授けるのも、水方の役目でした.
3、聞役(ききやく)・・・・各字(あざ)に1人おり、一戸一戸の信者を掌握していて、水方から伝えられたことを各人に流す。
このような帳方・水方・聞役という指導系統ができていたのです。250年に及ぶ長い間、一人の神父も指導者もいない中で、信者たちが信仰を伝え継承できたのは、一つには、この組織のゆえであったといえるでしょう。
 そしてこのような地下組織は、浦上ばかりではなく、外海地方、五島、平戸、生月地方のキリシタンたちも持っていました。
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2018年10月19日

三十  キリシタンの潜伏2−崩れ

主の真実と約束の成就を見る前に

 キリシタンの復活である信徒発見が起こる前に、大きな崩れが許されたのは、とても興味深いことです。250年、待ち続けたことの成就を見る前に、彼らは帳方を失い、水方も1人しか残らないという試練の中に置かれたのでした。しかも、その試練の中で、拷問のあまりの激しさに転んで仏教徒になる者もでたのです。
 しかしそのような中でも、最後まで信じて信仰を守り通した者たちは、この数年後に、主の真実と約束の成就を見ることになるのです。
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2018年10月15日

三十  キリシタンの潜伏2−崩れ

そして1856年「浦上三番崩れ」がおこります。これも密告によるものでした。最高指導者の帳方吉蔵をはじめ、多くの指導的人物が投獄され、非道な拷問を受けます。この時の拷問はあまりに厳しく、この時に転んで仏教徒になった者も、かなりいるようです。
1860年に事件は決着しますが、吉蔵は牢死、この利八は所払いになり、初代孫右衛門から吉蔵まで7代続いた帳方は、その後置かれなくなり、1865年の信徒発見を迎えます。水方も4人のうち1人だけが生き残りました。
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2018年10月12日

三十  キリシタンの潜伏2−崩れ

「浦上二番崩れ」は、1839年に転びキリシタンの密告により勃発(ぼっぱつ)しました。この時は、浦上キリシタンの秘密組織の最高指導者である長方の利五郎をはじめ、村民の中心的指導者ばかりが捕らえられました。しかし、この時も結局は、全員釈放となります。
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2018年10月10日

三十  キリシタンの潜伏2−崩れ

「浦上一番崩れは」1790年に起こりました。最初に19人が捕らえられますが、いったん証拠不十分ということで、出牢放免になります。しかし2年後の92年に、再び9人の物が入牢させられます。紆余(うよ)曲折を経て95年に、この事件は落着し、全員放免されます。
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2018年10月09日

三十  キリシタンの潜伏2−崩れ

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、命の冠を受けるからです」
(ヤコブの手紙1章12節)
崩れ

 キリシタンの潜伏時代には、たびたびキリシタンの検挙事件が起こりました。幕府や奉行所は、隠れキリシタンの事を密告した者には「嘱託銀(しょくたくぎん)」という賞金を出していましたが、これがかなり高額だったようです。その結果、この嘱託銀の賞金欲しさに密告する、いわゆるユダによるものが多かったようです。このようにして、大量検挙されて潜伏組織が崩壊に瀕(ひん)してしまうことを「崩れ」と呼びます。「崩れ」は大村藩の郡崩れや豊後崩れ、そして美濃・尾張地方での濃尾崩れなど、各地で起こりました。




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2018年10月05日

二十九  キリシタンの潜伏1−浦上のキリシタン

浦上のキリシタン

 1567年ごろから長崎にキリスト教が伝えられ、浦上にも布教が始まりました。浦上の人は救われ、キリシタンとなっていきました。そして1584年、有馬晴信がイエズス会の知行地として浦上を寄進したことによって、浦上は名実ともにキリシタンの村となります。しかし1587年に秀吉が伴天連(バテレン)(宣教師)追放令を出し、翌1588年には、浦上は長崎とともに直轄領となります。
そして徳川へと時代は移り、1614年、徳川家康は禁教令を出し、すべての宣教師は追放されることになりました。そして250年にわたる禁教と弾圧、迫害と殉教,キリシタンの潜伏時代へと入るのです。
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2018年10月04日

二十九  キリシタンの潜伏1−浦上のキリシタン

潜伏して信仰を守り通したキリシタン

 しかしそのような中で、長崎の浦上には地下に潜伏したキリシタンたちがいたのです。 彼らは帳方(ちょうかた)・水方(みずかた)・聞役(ききやく)という地下組織をを作って、なんと250年間、信仰を継承し守り通したのです。彼らは、この国、日本で再びキリストを信じる信仰を公にすることができるようになる日まで、7代にわたって信仰を継承し命をかけて守ったのです。  しかし、その信仰の自由を勝ち取るためには、彼らは再び激しい迫害と殉教の死を通らなければなりませんでした。    これからしばらくの間、この浦上のキリシタンたちに目を留めて書いていきたいと思います。
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2018年10月03日

二十九  キリシタンの潜伏1−浦上のキリシタン

二十六聖人以後のキリシタン

 幕府は 奉行にあらゆる方法で キリシタンを見つけださせ、彼らを殺すのではなく、転ばせて信仰を捨てさせるために 拷問を加えたのです。しかし、それでもどうしても 転ばないものに関しては、その上にとても残酷な方法で 殺していきました。  このような中で、日本に命がけで来ていた宣教師たちも、ついには捕らえられて、ある者は追放され、ある者は殺されていきました。そして、もはやキリシタンはいないと思われるまで徹底した弾圧が なされていったのです。
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2018年10月02日

二十九  キリシタンの潜伏1−浦上のキリシタン

「まことに、まことに、あなた方に告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネの福音書12章24節)

二十六聖人以後のキリシタン

1597年2月5日、長崎の西坂の丘で二十六聖人が殉教した後、多くの人々がキリストの名のゆえに捕らえられ、殉教していきました。 二十六聖人が殉教した翌1958年に、彼らに死を宣告した秀吉が死にます。そして時代は徳川の江戸幕府へと移り、日本は鎖国することになるのです。その結果、キリスト教は、やがて全面的に禁止され、非常に激しい迫害と 弾圧が始ってきます...
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2018年10月01日

二十八  十字架を負って4−応えは必ずやってくる

リバイバル

 西坂の丘に立つと、今も喜びが注がれてきます。天の御国から注がれてくる喜びが。 その丘に立って祈るたびに、主は私に語ってこられます。「彼らが示した愛と従順、彼らが負った十字架、彼らの祈りと願い それらは、決して忘れられていない。その応えが、この時代に必ずやって来る、」と そしてさらに主は、わたしに迫ってこられるのです。「真にへりくだって、自分を捨てて、自分の十字架を負って、私についてくる者たちに、彼らのバトンは受け継がれ、その者たちを通して、応えは必ずやって来る、リバイバルは必ず、まもなくやって来る」と。  ここまで、日本26聖人について書いて来ましたが、この章で終わります。次の章からは、その後の殉教者について、特に、浦上四番崩れの事を中心にかいていきます。  
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