2018年07月31日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

家族
  
 京都と大阪で捕らえられてから、一か月近くにわたった800キロの旅も、明日終わろうとしていました。彼らの体は、もうすっかり弱り果てていました。けれども彼らの心には、主イエス・キリストへの愛と、永遠の御国ー天国への確かな希望がありました。 彼らの主に対する信仰は、決して寒い凍(い)てつくようなこの夜も失われることなく、静かに、でも確かに燃え続けていたことでしょう。 そして、2月5日の夜明けが来ました。彼らの殉教する日が、やってきたのです。
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2018年07月30日

十七  最後まで魂の救いー宣教を求めて

家族

殉教者たちが育まれた、彼らの家族には、神の愛が注がれていました。主への信仰を中心とした、神の愛があったのです。彼らは、尊敬し、愛し合っていたのです しかも、主のためには、自らの命を捧げて、家族を主に委ねるほどの信仰でした。 また、たとえ家族の誰かを失っても、彼らは、主を信じ続けました。主を、愛し続けました。彼らは、天国で再会できることを知っていたからです。彼らは、この地上では旅人であり、寄留者であることを証ししたのです。 このような信仰の家族が、かって日本にあったのです。 これは驚きでもあり、希望でもあります。 主は再びこのような家族を、この国に起こし始めておられるのではないでしょうか。 終末のリバイバルに向けて、迫害と殉教の時代に備えて、主は、このような家族を、再び建て上げておられるのです。
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2018年07月29日

十七 最後まで魂の救いー宣教を求めて

家族

 私はある時、この時津の港に立って、しばらく祈り、主に聞きました。26人の殉教者たち、その中でもとりわけ、3人の少年たちが持っていた、主への信仰と天国への希望は。一体どこで育(はぐく)まれ、培われてきたのですかと。そのとき、主は答えを下さいました。「それは、家族である」と。
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2018年07月28日

十七最後まで魂の救いー宣教を求めて

「けれども、私が自分の走るべき工程を走りつくし、主イエスから受けた、神の恵みの福音を証しする任務を果たし終えることができるなら、私の命は少しも惜しいとは思いません」(使徒の働き20章24節)

1597年2月4日、地上での最後の夜を26人の殉教者たちは、時津(とぎつ)の港で、明かそうとしていました。居心地悪い小さな小舟の中で、後ろ手に縛られながら、彼らは、 最後のゲッセマニの夜を、祈り明かしたことでしょう。 この時津の港に立って湾を眺めて祈っていると、彼らの息遣いが聞こえてくるような気がします。
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2018年07月24日

十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

ゲッセマネ

 ところが、殉教者たちが時津の岸壁についても、上陸は許されませんでした。 時津はキリシタンの町でした。護送役人たちは、キリシタンの人々が、殉教者を取り戻そうと暴動をおこしはしないかと恐れたのです。もちろん、そんな事をするわけはありませんが、護送役人たちは、自分たちの尺度で考えて恐れ、心配し、警戒して、上陸を許さなかったのです。 26人の殉教者たちは、後ろ手に縛られたまま、いこごちの悪い舟の中で、その夜を明かさねばなりませんでした。殉教者たちは、寒風が吹きすさぶ中、夜露に濡れながら、この夜は、ほとんど眠らないまま過ごしたようです。 しかもこの夜は、ことのほか寒さが厳しかったので、殉教者たちは、体をを寄せ合って祈り合いながら、暖を取り、この地上での最後の夜を過ごしたと言われています。 彼らにとって、この夜はまさにゲッセマネとなりました。 そして、彼らにとってゲッセマネとなった2月4日の冬の夜が、やがて明けようとしていました。
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2018年07月23日

十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

時津へ

 26人たちの殉教者たちは、彼杵の港から3隻の舟に乗せられて、時津へと向かいました。2月4日、夕刻の6時頃だと言われています。 ペテロ・バプチスタ神父をはじめとする、6人の外国人神父以外は全員、首に縄をかけられ、その縄で両手を後ろ手に縛られていました。そしてなんの覆いもない3隻の小舟の上に26人は分乗うさせられて、凍てつくような夜の海を対岸の時津まで送られたのです。 彼杵を出た舟は、冷たい潮風にさらされながら、夜の11時ころに時津に着きました。 この時、26人の殉教者たちは、彼らの地上での最後の夜を迎えようとしていたのです。
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2018年07月22日

十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

赦しと和解

 その26人の殉教者たちは、峠を降りて彼杵の港に着きました。そこで彼らは、イエズス会のヨハネ・ロドリゲス神父とパシオ神父に会うのです。 実はイエズス会とフランシスコ会の間には、宣教の考え方や、やり方にずいぶん違いがありました。共にイエス・キリストを宣べ伝えていきたいと強く願っていましたが、時として二つの会の間で意見が激しくぶつかり合うこともあったのです。 それでこの時、ペテロ・バプチスタ神父はフランシスコ会士を代表して、イエズス会の神父である彼に、謝罪と和解をいいました。「私たちは間もなく、死出の旅路に着きますが、今までにイエズス会の神父の方々に、ずいぶんとご迷惑をかけたことと存じますが、どうか、その一切をお赦しください」と、するとそれに対して、ロドリゲス神父も、「私たちもまた、イエズス会の名において、フランシスコ会の方々に、あなたと同じことをお願いし、おわびいたします」と語り、二人はお互いを許し合って、そこで固く抱きしめ合ったのです。
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2018年07月21日

十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物を捧げなさい」(マタイ福音書5章24節)

殉教への旅の中で、最も険しい俵坂峠を越えたところで、日本の将来を思って涙を流したペテロ・バプチスタ神父、 その涙の祈りの答えが私たちなのです。
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十六  時津へー殉教者たちのゲッセマネ

「供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物を捧げなさい」(マタイ福音書5章24節)

殉教への旅の中で、最も険しい俵坂峠を越えたところで、日本の将来を思って涙を流したペテロ・バプチスタ神父、 その涙の祈りの答えが私たちなのです。
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2018年07月20日

十五  涙を止めたペテロ・バプチスタ神父

宣教師魂ー魂への情熱

 わたしはペテロ・バプチスタ神父が、日本の将来を思って、思わずも泣いてしまったのを見て深く感動しました。 しかし、それにも増して、彼が流れていた涙を、まだキリストを知らない人につまづきを与えたくないと、止めたことに、もっと深い感動を覚えるのです。 これはまさに宣教師魂、これぞまさに魂への情熱。 私も彼が持っていたこのスピリットを、主から頂きたいと、心から祈らずにはいられません。
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2018年07月19日

十五  涙を止めたペテロ・バプチスタ神父

「ペテロ・バプチスタ神父。役人たちや見物人たちが、あなたの涙を見て、死ぬのが怖いから泣いているのだと全く曲解して、あなたの事を、ひきょう者とやじっています。私は、あなたが、なぜ泣いておられるのかがわかります。でも彼らには、分からないのです。神父、どうか彼らには、涙を見せない下下さい。誤解されてしまいますから、どうか涙を見せないでください」 パウロ三木は、ペテロ・バプチスタ神父にたのみました。 するとペテロ・バプチスタ神父は、それまで流していた涙を止めて、冷静さを取り戻したのです。まだキリストを知らない人に、つまづきを与えたくないという思いが、彼の涙を止めたのです。
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2018年07月18日

十五  涙を止めたペテロ・バプチスタ神父

役人たちの誤解

 ところが、ペテロ・バプチスタ神父のこの様子を、ニヤニヤ笑いながら遠くから眺めている人がいました。役人たちでした。役人たちは、部下にニヤニヤ笑いながら耳打ちしたのです。「見てごらん。珍しい神父の涙。あの高名なバテレンも、いよいよ死ぬ日が近づいたので、十字架にかかるのが恐ろしくて、泣いているわい」 役人たちが意地の悪い皮肉笑いを浮かべながら。うわさし合っているのを、バプテスマ神父は知りませんでした。しかし武士出身のパウロ三木が、この役人たちのささやき合っている声を、聞いたのです。彼はバプチスタ神父が、なぜ泣いているかを知っていたので、たまりかねて神父に近づき、神父に言いました。
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2018年07月17日

十五  涙を止めたペテロ・バプチスタ神父

彼が泣いたのは、この国、日本の将来を思って泣いたのでした。  この国はいったいこの後、どうなっていくのだろう。迫害の嵐は、今、吹き始めたばかりで、もっと激しくなるだろう。そうなると、この国の宗教は、どうなってしまうのだろう。この国の、まだキリストを知らない人たちは どうして信じることができるだろう。 クリスチャンも、信仰を持ち続けることが困難になるだろう。 そう思うと、彼の目から、とめどなく涙がでてきたのです。
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十五  涙を止めたペテロ・バプチスタ神父

「バプチスマののヨハネの日以来今日まで、天の御国は激しく攻められています。そして、激しく攻める者たちがそれを奪い取っています」(マタイの福音書11章12節)

 26人の殉教者たちの殉教への旅の中で、最もつらく険しかった俵坂峠。 しかしその峠を越えた時、眼下に広がる美しい大村湾を見て、彼らは天国を思いながら深い喜びに包まれたのです。 26人がそこでしばらく休憩をしていた時、リーダーのペテロ・バプチスタ神父は、岩の上に腰を下ろしながら、思わずも涙が、ほおを伝って流れてきたのです。 もちろん彼が涙を流したのは、自分の命が惜しいからでも、死が怖いからでもありませんでした。彼が泣いたのは、この国、日本の将来を思って泣いたのでした。
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2018年07月16日

十四  ペテロ・バプチスタの涙ーこの国のリバイバルを願って

彼らの涙の祈りの答え

 私は何度も彼杵に行きました。そこに行くたびに、主は私に、静かに、でもはっきりと語ってこられます。「あなたは彼の涙の祈りの答えである」と。 これから、この日本にも、大いなる魂の収穫と刈り取りが始まってくることでしょう。 終末における大きなリバイバルの働きが、訪れてきます。 それは、彼らの命をかけた涙の祈りの答えであることを、忘れてはいけません。かってこの日本のために、国も、家族も捨てて、福音を携え宣教に来て、喜んで殉教していった人々がいたことを、私たちはしっかりと、心に刻んで覚えておくべきです。 しかし、遠くで、このペテロ・バプチスタの涙を、何もわからないで意地悪い皮肉笑いをしてみている者たちがいました。役人たちでした。 
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2018年07月15日

十四  ペテロ・バプチスタの涙ーこの国のリバイバルを願って

彼杵の海

 かって、日本にこのような宣教師(神父)がいたのです。 死を前にして、殉教を前にして、自分の事や自分の母国のことも、そこに置いてきた家族の事も忘れて、この日本の宣教の働きのために、涙を流さずにはおれなかった宣教師(神父)が。 日本に必ずリバイバルがやってきます。 神はペテロ・バプチスタ神父の涙を覚えていらっしゃいます。 彼の祈りを心に刻んでおられます。 そしてその祈りの答えとして、私たちを用いてくださるのです。
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2018年07月14日

十四  ペテロ・バプチスタの涙ーこの国のリバイバルを願って

彼杵の海

「いま自分は、死地へ向かって進んでいる。イエス・キリストを伝えたがために、自分は殺される。そのことは、この上もない喜びである。しかし、しかしこの国の宣教は始まったばかりなのに、それを受け継ぐ同僚までもが、共に死んでいくのだ。この国の宣教の働きは、一体どうなってしまうのだろう。自分が全身全霊を捧げたこの働きが、ガラガラと崩壊していく」 彼は自分の命のために泣いたのではありませんでした。自分の生まれ育った国や家族のために泣いたのでもありませんでした。彼が涙を流したのは、彼のほおをとめどなく涙が流れて止まらなかったのは、この国、そうです。私たちのこの国、日本のためだったのです。彼は私たちの国、この日本の将来を思って泣いたのです。日本のキリシタンたちが、これから通るであろう苦しみを思って泣いたのです。
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2018年07月13日

十四  ペテロ・バプチスタの涙ーこの国のリバイバルを願って

彼杵の海

美しい穏やかな大村湾を眺めながら、低い声で一同は、今までの事をあれやこれやと話していました。そのとき、26人のリーダーのペトロ・バプチスタ神父は、みんなから少し離れたところにある岩の上に腰を下ろして、静かに黙想をしていました。 彼は、日本に来てからの筆舌に尽くしがたい3年間の苦難と戦いの事を、思い返していたのです。京都の病院に残してきた患者たちの食べるコメがないことが、殉教を前にしても、ふっと思いだされました。 仲間たちと、ともにしてきた日本の宣教の開拓は、一体どうなるのだろう。 しばらく思いめぐらすうちに、ペテロ・バプチスタ神父の目から涙が、とめどなく流れてきたのです。
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2018年07月11日

十四  ペテロ・バプチスタの涙ーこの国のリバイバルを願って

 しかし、その最も苦しい峠を越えた時、目の前にとても美しい大村湾が広がっていたのです。彼らはその美しさに感動を覚えながら、やがて帰っていく 天国に思いをはせていました。その時、とても深い喜びが、彼らの心の奥底からわき上がってきたのです。 大村湾を眼下に見ながら、彼らは峠を下り、彼杵(そのぎ)の港にたどり着きました。2月4日、彼らが西坂の丘で殉教する前日の夕方の事でした。彼らは、ここから時津へ舟で連れられて行くのです。この彼杵の港で、しばしの休憩の時が持たれました。
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十四  ペテロ・バプチスタの涙ーこの国のリバイバルを願って

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」(マルコの福音書8章34節)

 26人の殉教者たちの殉教の旅は、終わりに近づいてきました。佐賀の山本村から、とても険しい俵坂峠を彼らは黙々と歩き続けました。すれ違う人もなく、彼らのひと月にわたる殉教への旅の中で最も苦しい時だったと思います。
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2018年07月10日

十三  険しい峠ー俵坂峠

美しい風景 大村湾

 26人の殉教者たちは思いました。「地上でさえ、このような苦しい登り道の峠の後に、こんなに素晴らしい景色に出会うことができて、こうして慰めを与えられる。ましてこの殉教の旅を終えって天の家に帰る時、どんなに素晴らしい風景が私たちを待っていることだろう」 そう思うと、彼らの内側から喜びと賛美が、再びわき上がってきたのです。
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2018年07月09日

十三  険しい峠ー俵坂峠

美しい風景 大村湾

 その厳しくつらい俵坂峠を歩き、山を越えて、峠にたどり着いた時、目の前に大村湾が一望できました。 眼下に広がるその大村湾の美しさに感動を覚えながら、そこで休憩をしました。 子の大村湾は、イスラエルのガリレア湖ととても似ていて、まるで湖のようです。その素晴らしい景色を見ていると、それまでの疲れや苦しみが消えていくのを覚えました。 


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2018年07月08日

十三  険しい峠ー俵坂峠

険しい峠

 26人の殉教者たちもさすがに、これまでの長旅の疲れが出てきたようでした。もう間もなく殉教する長崎に入るという直前に、最も厳しいつらい道が待っていたのです。 山本から彼杵までの道は、峠となっていました。それはそれは、とてもとても険しい峠道が続くのです。この峠は、俵坂峠といいます。 その峠を歩いている間、ほとんど人とすれ違うことも、見かけることもなく、彼らは、ただひたすら黙々と静かに、その苦しい登り道を、歩いて進んでいったのです。京都から歩きながら、説教し続けたていたパウロ三木も、通り過ぎる人もなく、険しい峠でただ息を切らしながら、説教もできずに黙々と歩き続けたのです。  彼らにとって、この殉教への旅の中で最もつらく厳しい時でした。

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2018年07月07日

十三  険しい峠ー俵坂峠

難渋を極めた道

とはいえ2月2日に山本村を出てから、彼らの旅は厳しさを増し加えていきます。 山本から伊万里、武雄と26人の一行はひたすら黙々と歩き続けました。中には、あまりにも体が弱って歩けなくなったため、かごに乗せて山越えをした者もいたほどです。 この辺りは、現在の佐賀に当たりますが、当時は肥前の国でした。九州で唯一キリシタンにならなかった国でもあります。この肥前の国は、以前からキリシタンたちと教会を目の敵にしていました。 芝居や映画でも有名な化け猫騒動の鍋島藩の領地だったからです。  ここから26人はさらに柄崎(現在の彼杵そのぎ)に向かって行きました。
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2018年07月06日

十三  険しい峠ー俵坂峠

難渋を極めた道

 1月3日に、京都の耳そぎで始まった殉教の旅も、まもなく終わろうとしていました。 ひと月近く続いた天国へのこの旅は、冬のさなかでもあり, 道はぬかるみ、非常な難渋を極めたようです。しかし26人の心の中には、イエス・キリストへの信仰と愛があふれていました。天国への希望が、満ちていました。ですから、体は弱り果てていても、彼らの表情は喜びに満ちて明るかったのです。
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posted by 日本教会史 at 02:27| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする