2018年03月31日

四十 浦上四番崩れ4一村総流罪 津和野での拷問

 今度は神主の佐伯という人が説得にかかりましたが、信者は全く感心しません。そこでしかたなく、拷問を加えることに方針を変えました。畳をはぎ取り、食事には一日米3合、塩ひとつまみと水、むしろとちり紙一枚をあてがいました。着物は捕らわれた日に着ていた物があるだけでした。板敷きの上に、みんなで抱き合って寝ましたが、冬の津和野はあまりに寒くて眠れません。とうとう16人は耐え切れずに転宗を申し出ました。
続きを読む
posted by 日本教会史 at 21:34| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月30日

四十 浦上四番崩れ4一村総流罪 「津和野での拷問」

この旅のなかで、特に迫害が厳しかった津和野のことを、少しだけ書いておきます。 仙右エ門や甚三郎は、津和野に流されました。初めは毎日お寺のお坊さんが来て説教をし、転宗を迫りました。こうして半年が過ぎました。
posted by 日本教会史 at 09:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月29日

四十 浦上四番崩れ4一村総流罪

 彼らは信仰を守り通すため、全国21藩に流配され、6年有余の長い間、飢え渇きながら数々の拷問の苦しみに耐え、ついに1873(明治6年)、キリシタン禁令の高札が撤去され、荒れ果てた浦上に帰ってくるのです。
posted by 日本教会史 at 07:05| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月28日

四十 浦上四番崩れ4一村総流罪 「旅」

この旅では、家族ばらばらにされる者が多く、親に別れ、夫に別れて見知らぬ所に連れて行かれて、ひどい難儀をしたようです。

posted by 日本教会史 at 16:13| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月27日

四十 浦上四番崩れ4一村総流罪 「旅」

信者たちは、この流罪を「旅」と言いました。一村総流罪というこの旅は、近代日本の歴史に特筆されるべき残酷物語ではありました。 しかし、旅に出る人の心は明るかったのです。 信仰を守り神様への忠実を貫いて、殉教への旅に出ることは、彼らに残されたただ一つの道だったからです。
続きを読む
posted by 日本教会史 at 19:16| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月26日

四十 浦上四番崩れ4一村総流罪

 ある者は汽船で、あるいは和船で、ある人は長崎港の大波止から、他の人は時津(とぎつ)というふうににして、いろいろな船で20ヶ所に流されたのです。

posted by 日本教会史 at 05:02| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月25日

四十 浦上四番崩れ4一村総流罪

 翌6日には先に萩、津和野、福山に流された114人の家族を召喚して、彼らも夕方、その汽船に乗せました。また700人の残りの家族に対しても検挙が始まり、男も女も、老人も子供も、みんな勇んで家を出ました。
posted by 日本教会史 at 17:25| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月24日

四十 浦上四番崩れ4

1月5日の朝、振遠隊という長崎守備の兵士たちが浦上に出張して、男子たる戸主700人を立山役所に集め、大雪の中、終日役所の庭に立たせた末、夕方になってから 長崎港(大波止)に集まっていた12隻の汽船に 彼らを乗せました。


posted by 日本教会史 at 08:43| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月23日

四十 浦上四番崩れ4一村総流罪

 その間に長崎にいるかっこ各国領事をはじめ、たまたま長崎に来ていたイギリス公使パークスたちが県知事に掛け合って、なんとかやめさせようとしましたが、知事は「東京政府から出た命令なので何ともしがたい」と突っぱねたのです。
posted by 日本教会史 at 08:30| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月22日

四十 浦上四番崩れ4一村総流配

 1868年7月11日、まず最初に、仙右衛門や甚三郎などの中心人物から萩に66人、津和野に28人福山に20人の合計114人が
長崎港から送り出されました。なんとこの時、浦上に残された人たちには家族の者でさえ、彼らがどこに流されたのかは、知らされなかったのです。それが分かったのは、半年後の事でした。そして1870年1月1日、突然、残された戸主700人に、明朝六ツ時(午前6時)までに立山役所に集まれと出頭命令が出ました。あまりにも突然だったので出かけている者もあり、5日に改めてほしいと信者が申し出、役所もそれを許しました。
posted by 日本教会史 at 16:42| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

浦上一村総流配A

  しかし、それはあまりにもひどすぎると、参与小松帯刀が三条実美に意見を申し出たので、
死刑にしないで全員流配することに決まりました。
  こうして神道国教主義をとった明治新政府は、キリストへの信仰を捨てない浦上のキリシタンたちを
「一村総流罪」(いっそんそうるざい)にすることに決めました。
  この結果、浦上の信者3394人が金沢や名古屋、それに萩、津和野、鹿児島などの西日本の諸藩に
流されるという大変な処分が、行われることになったのです。
posted by 日本教会史 at 16:01| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月08日

浦上一村総流配 @ 浦上一村総流配 @ 浦上一村総流配  浦上一村総流配@

そう5月17日、大阪の本願寺で処分に関する御前会議が開かれ、
三条実美、木戸孝允、伊達宗城、井上馨に、長崎から呼び出された大隈重信が 
 加わりました。

御前会議では沢の処分案や重臣の意見も参考にされましたが、
木戸の意見が用いられ、中心人物を長崎で死刑にし、
残りの三千余人を
名古屋以西の十万石以上の諸藩に流配、
大名に生殺与奪の権を与え、7年間は一口半の扶助米を支給し、
キリシタンの中心 浦上を 一層することに定まりました。



posted by 日本教会史 at 16:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする