2016年11月30日

バスチャンの日繰りB

長い迫害の中で、
浦上はもとより外海・五島・長崎地方のキリシタンたちが
信仰を伝承しえた力のひとつは、
この「日繰り」であったと言っても
決して過言ではないのです。
ではどのようにしてこの「日繰り」はできたのでしょう。

2016年11月29日

バスチャンの日繰りA

彼は「バスチャンさまの日くり」という、
1934年の大陰暦によるキリシタン暦
(受難週や復活祭、聖霊降臨日や降誕節など)
を残しました。
この影響は非常に大きなものがあります。

2016年11月28日

バスチャンの日繰り@

この地下組織のほかに、
もうひとつ彼らが250年間
信仰の灯をともし続けるのに大きな原動力となったものがあります。
それは神父たちが殉教してしまった後に、
信徒を指導していた日本人伝道士
バスチャンの存在でした。
彼の洗礼名はセバスチャンと言いましたが、
略してバスチャンと呼ばれていました。
彼の日本名はいまもわかっていません。

2016年11月26日

浦上四番崩れC

A水方・・・各郷に一人いて、
帳方から伝えられた祝日や祈り、
教義を聞き役に伝える。
洗礼を授けるのは
水方の役目になっていました。

2016年11月24日

浦上の地下組織A

まず第一に、彼らの作った地下組織でした。
それは次の3役で構成されていました。

@帳方(ちょうかた)・・・浦上に一人いて、
日繰り(バスチャン暦)を所持し、
1年の祝日や教会行事の日を繰り出し、
また祈りや教義などを伝承する。

2016年11月23日

浦上の地下組織@

信徒発見までの7代250年間ものあいだ、
何が浦上のキリシタンたちに潜伏の中で
信仰を保持することを可能にさせたのでしょうか。
それには2つの大きな理由があると思われます。

浦上の地下組織@

信徒発見までの7代250年間ものあいだ、
何が浦上のキリシタンたちに潜伏の中で
信仰を保持することを可能にさせたのでしょうか。
それには2つの大きな理由があると思われます。

2016年11月21日

崩れH

しかもその中で転んで
仏教徒になるものも出ました。
しかし最後まで信じて信仰を守り通した者たちは、
この数年後、
主の真実と約束の成就を見ることになったのです。

2016年11月19日

崩れG


信徒発見が起こる直前に大きな崩れが
許されたのは、とても興味深いことです。
250年待ち続けたことの成就を見る前に彼らは
帳方を失い、水方も一人しか残らないという
試練の中に置かれたのでした。

殉教ブログ.jpg

posted by 日本教会史 at 17:51| Comment(0) | martyrdom, 殉教 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月18日

崩れF

1860年に事件は決着しましたが、
基地蔵は牢死、子の利久は所払いになり、
初代右衛門から吉蔵まで七代続いた
帳方は、その後置かれなくなり、
1865年の信徒発見を迎えます。
水方も4人のうち一人だけが生き残りました。

2016年11月16日

崩れE

1856年「浦上三番崩れ」が起こります。
これも密告によるものでした。
最高指揮者の帳方吉蔵以下
多くの指導的人物が投獄され、
非道な拷問を受けます。
このときの拷問で転んで仏教徒になった
者もいるようです。

2016年11月13日

崩れE

1856年「浦上三番崩れ」が起こります。
これも密告によるものでした。
最高指揮者の帳方吉蔵以下
多くの指導的人物が投獄され、
非道な拷問を受けます。
このときの拷問で転んで仏教徒になった
者もいるようです。

2016年11月12日

崩れD

「浦上二番崩れ」は
1839年に転びキリシタンの密告によって勃発し、
浦上キリシタンの秘密組織の最高指揮者である
帳方の利五郎をはじめ、
村民の中心的指導者ばかりが捕らえられました。
このときも結局は、
全員釈放となりました。

2016年11月10日

崩れA

大量検挙によって潜伏組織が崩壊したことを
「崩れ」と呼びます。
「崩れ」は大村藩の郡崩れや豊後崩れ、
そして美濃、尾張地方での濃尾崩れなど
各地で起こりました。

崩れ@

キリシタンの潜伏時代には、
たびたびキリシタンの検挙事件が起こりました。
嘱託銀(高札に記された訴人への賞金)ほしさの密告、
いわゆるユダによるものが多かったようです。

2016年11月09日

26聖人以後のキリシタンF

1614年1月31日、
徳川家康は禁教令を発布し、
すべての宣教師は追放されることになりました。
そして250年にわたる
禁教と弾圧、
迫害と殉教、
キリシタンの潜伏の時代へと入ることになったのです。

2016年11月07日

26聖人以後のクリスチャン⑹

1584年、有馬晴信がイエズス会の知行地として浦上を寄進したことによって、
浦上は名実ともにキリシタンの村になったのです。
しかし1587年に秀吉が伴天連(バテレン)(宣教師追放令を出し、翌88年に浦上は長崎とともに直轄領となります。

2016年11月05日

26聖人以後のクリスチャンD

彼らはこの国で再びキリストを信じる
信仰を公にすることができるようになる日まで、7代にわたって信仰を継承していきました。
しかも彼らが信仰の自由を得るためには、
再び激しい迫害と殉教の死を
通らねばなりませんでした。