2016年09月28日

十字架を背負ってB

キリストのそばに置かれた12弟子たちがキリストと聖霊によって造り変えられて
いったように、彼らも殉教への道の中で
神により近づけられ、変えられていったのです。

長崎への道の途中で殉教者に加えられたペトロ助四郎とフランシスコ吉や、日本に来てわずか数ヶ月で捕らえられ殉教者の中に入れられたフェリペを見ているとそんなふうに思えてきます。

十字架を負ってA

だからこそ、たとえばマチヤスのように自ら進んで同じ洗礼名をもつ人間に代わって
捕らえられることができたのでしょう。

京都で捕らえられてから
西坂の丘で殉教するまでのひと月の長崎への道は、彼らにさらに深く十字架を負うことを教えてくれたことでしょう。
その道の中で彼らはさらにキリストに近づき、十字架の深みへと導かれ、喜んで殉教していったのです。
彼らに許された殉教という十字架を負うために、主はひと月の備えのときを彼らに与えられたのです。

posted by 日本教会史 at 22:51| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

十字架を負って@

彼らにとって殉教は確かに十字架でした。
けれどもその十字架を喜んで彼らが
負うことを選べたのは、
それまでの日々の生活の中で
彼らがすでに十字架を負っていたから
なのではないでしょうか?