2016年08月31日

トマス小崎@

現在の三原城跡は新幹線三原駅
 いまから8年前の1988年の5月に
私たち夫婦は長崎に遣わされてきました 5月15日に東京で按手を受け、
臨月だった妻とともに、京都まで新幹線で行き、そこから、26聖人の足跡をたどって長崎まで来ました。
 私たちは、まず京都で戻り橋を渡り、
そこでしばらく祈りました。
そして再び新幹線に乗り、京都から大阪、そして兵庫、明石、姫路、さらに岡山、
尾道と、彼らの足跡を追いかけ、ついに三原につきました。
私たちはそこで降りて一泊したのです。

ここは殉教した26聖人の一人であった
トマス小崎がお母さんに手紙をしたためたところです。彼はまだ15歳の少年でしたが、48歳の父ミカエル小崎とともに
殉教したのです。伊勢生まれの弓師であった父ミカエル小崎とともに、彼は西坂の丘で十字架にかけられて処刑されるのです。

2016年08月30日

少年ルドビコ茨木D

私は何度か、この12歳のいたいけなルドビゴ茨木少年が神を選んだ山本の村へ、足を運びました。山本の村を流れている川の堤防に腰をかけながら、天を見上げて祈っていると、深い神のご臨在がいつも注がれてきます。この少年の目は朽ちることのない天に向けられていたのです。
彼は天がどれほど確かな報いであるかを知っていたのです。
だからこそ彼は地上のどんな誘惑にも動じませんでした。
ごちそうにもドレスにも長寿や大名という肩書きにも・・・
そう、彼は確かに知っていたいたのです。
天の報いの確かさを。


2016年08月29日

少年ルドビコ茨木B


「キリシタンを捨てることが条件だぞ。
それ以外のことは何でも許してやろう。
大目に見る。しかしいまのままの信仰ではだめだ。おれの養子になれ、あともう50年は生きられるぞ。おいしいものも食べられる。きれいな服も着れる。そのうえ、刀を差して武士になり、大名にもなれるぞ」

 半三郎は何とかしてルドビゴを助けようと言いました。
しかし、ルドビゴ少年は半三郎の目をしっかりと見てこう言いました。
「そうしてまで私は生きのびたいとは思いませぬ。なぜなら、終わりなき永遠の命を、たちまち滅びるつかのまの肉体の命とは代えられないからです。
 お武家さま、あなたのほうこそキリシタンにおなりになり、これから私が参りますパライソにおいでなさるのが、ずっとよいことです。あなたもキリストを信じて、私と一緒に天国に参りましょう」

少年ルドビコ茨木A

A

それで彼はルドビゴに言ったのです。
「お前の命は私の掌の中にある。もし、私に仕える気があれば、お前を助けてつかわそうぞ。私の養子になれ」
ルドビゴ少年は答えました。「私はペトロ・バプチスタ神父(26人のリーダー)に従いまする。」

 それを聞いた神父は、
「キリシタンとしての生活が許されるなら、喜んでそれに従いなされ。」
と言いました。
それで、ルドビゴ少年は半三郎に答えました。
「ありがとうございます。それでは養子にさせていただきまする。
ただ一つだけお願いがあります。
キリシタンとしていまのままの信仰を持ち続けられるならば・・・」

少年ルドビコ茨木@

 2月1日に、唐津湾に遠からぬ村の山本で、殉教者の一行は、寺沢半三郎に引き渡されました。
半三郎は唐津城主寺沢広高の弟であり、
処刑の執行責任者である長崎奉行の職にありました。
  彼は名簿と囚人とを照合して受け取りましたが、そのとき彼の心は2つのことで痛んだのです。主人の中に彼の友人のパウロ三木と三人の少年がいたことでした。
とりわけ、元気で、いたいけな12歳のルドビゴ茨木を処刑にしなければならないと思うと彼の心は暗く重たくなりました。

2016年08月28日

二人が選び26人にA


下関についたときには、殉教者たちは26人となり、この二人ーーペトロ助四郎とフランシスコ吉ーーも囚人になっていたのです。しかし彼らの顔はきっと輝いていたでしょう。主とともにいる喜びと天国への希望に燃えて・・・・。

 26人となった殉教者の一行は、大阪から長崎までの約800キロにわたる長い距離を、ほとんど陸路で旅を続けました。
冬のさなかでもあり、道はぬかるみ、非常な難渋を極めたようです。
その苦しみを和らげ、大きな慰めとなり励ましとなっていたのが、最年少で12歳のルドビゴ茨木少年でした。彼は生来利発ではありませんでしたが、長崎への旅の道中でも、いつも明るく朗らかでとても元気のいい少年でした。
 もしかすると、彼らのほうから自分たちも殉教者の仲間に加えられるように願ったのかもしれません。事実、そのように書いてある書物もあります。
いずれにしても、この二人にとっても殉教は喜びであり、彼ら自身の選びだったのです。

二人が選び26人に@


秀吉によって捕縛されたのは24人でした。長崎に向かう道中で26人になります。
それは京都にいたオルガンティノ神父が、
三人のイエズス会士の世話のためにと、
ペトロ助四郎という青年に路銀を持たせて
付き添わせたからです。彼は、わが身も顧みず奉仕に努めました。
もう一人はフランシスコ会士で伊勢の大工であったフランシスコ吉で、彼はフランシスコ会士をはじめ24人の殉教者たちが、
京都、大阪、堺の町々を引き回されたときから、長崎に護送される道中までもずっと彼らを慕い続け、身の回りの世話をしていたのです。

この二人は道中のどこかで役人の縄を受けています。おそらく強欲な役人たちが、
彼らの財布の路銀に目をつけたのでしょう。しかし彼らは殉教の恵みを受けることになったことを喜んで、むしろ進んで縄を受けてもっていた路銀を差し出したようです。

2016年08月27日

戻り橋を渡ってA

秀吉はこの24人を長崎で処刑することに決め、さらに人々への見せしめのために、
鼻と両耳をそぎ、惨めになった姿を大坂、
京都などの主な町々で引き回せと命令しました。
しかし、京都奉行であった石田三成はいくらか減刑して、左の耳たぶを切るだけにしました。
1月3日、上京一条の辻に24人は連れ出され、そこで左の耳たぶをそがれます。それから京都の町を引き回され、さらに大坂、堺でも引き回されます。実はこのとき、殉教をまぬがれるチャンスがあったのです。

戻り橋を渡って@

捕縛された24人は、6人のフランシスコ会士の外国人神父をはじめ、3人の日本人イエズス会士と15名の日本人信徒でした。
その中には、伝道士、伝道士見習いはもとより、元僧侶、武士や商人と3人の子供も含まれていたのです。
ただ、この最初の殉教者の中には女性は含まれていませんでした。
もちろんこの後、多くの女性が殉教していきます。

2016年08月26日

ルドビコ茨木D

ルドビゴ茨木は刑場である西坂の丘についたとき、自分がかかるために用意された十字架に走り寄り、それを抱きしめて頬ずりし、口づけしたのです。そして十字架の上にかけられたとき、かたわらで十字架にかけられていた13歳の少年アントニオとともに、高らかに詩篇113篇を、
歌ったのです。
「子らよ。主をほめたたえまつれ」と
(新改訳は、主のしもべたちよ)
そのとき西坂の丘に天国が降りてきました。
いままで見せしめのために極悪犯罪人がいつも殺されていた苦しみと悲しみとの地獄の場所に、天国が降りてきたのです。

ルドビコ茨木C

「キリシタンを捨てることが条件だぞ。
それ以外のことは何でも許してやろう。
大目に見る。しかしいまのままの信仰ではだめだ。おれの養子になれ、あともう50年は生きられるぞ。おいしいものも食べられる。きれいな服も着れる。そのうえ、刀を差して武士になり、大名にもなれるぞ」

 半三郎は何とかしてルドビゴを助けようと言いました。
しかし、ルドビゴ少年は半三郎の目をしっかりと見てこう言いました。
「そうしてまで私は生きのびたいとは思いませぬ。なぜなら、終わりなき永遠の命を、たちまち滅びるつかのまの肉体の命とは代えられないからです。
 お武家さま、あなたのほうこそキリシタンにおなりになり、これから私が参りますパライソにおいでなさるのが、ずっとよいことです。あなたもキリストを信じて、私と一緒に天国に参りましょう」

ルドビコ茨木B

「キリシタンを捨てることが条件だぞ。
それ以外のことは何でも許してやろう。
大目に見る。しかしいまのままの信仰ではだめだ。おれの養子になれ、あともう50年は生きられるぞ。おいしいものも食べられる。きれいな服も着れる。そのうえ、刀を差して武士になり、大名にもなれるぞ」

 半三郎は何とかしてルドビゴを助けようと言いました。
しかし、ルドビゴ少年は半三郎の目をしっかりと見てこう言いました。
「そうしてまで私は生きのびたいとは思いませぬ。なぜなら、終わりなき永遠の命を、たちまち滅びるつかのまの肉体の命とは代えられないからです。
 お武家さま、あなたのほうこそキリシタンにおなりになり、これから私が参りますパライソにおいでなさるのが、ずっとよいことです。あなたもキリストを信じて、私と一緒に天国に参りましょう」

2016年08月22日

少年ルドビコ茨木@

 2月1日に、唐津湾に遠からぬ村の山本で、殉教者の一行は、寺沢半三郎に引き渡されました。
半三郎は唐津城主寺沢広高の弟であり、
処刑の執行責任者である長崎奉行の職にありました。
  彼は名簿と囚人とを照合して受け取りましたが、そのとき彼の心は2つのことで痛んだのです。主人の中に彼の友人のパウロ三木と三人の少年がいたことでした。
とりわけ、元気で、いたいけな12歳のルドビゴ茨木を処刑にしなければならないと思うと彼の心は暗く重たくなりました。

二人が選び26人にA

下関についたときには、殉教者たちは26人となり、この二人ーーペトロ助四郎とフランシスコ吉ーーも囚人になっていたのです。しかし彼らの顔はきっと輝いていたでしょう。主とともにいる喜びと天国への希望に燃えて・・・・。

 26人となった殉教者の一行は、大阪から長崎までの約800キロにわたる長い距離を、ほとんど陸路で旅を続けました。
冬のさなかでもあり、道はぬかるみ、非常な難渋を極めたようです。
その苦しみを和らげ、大きな慰めとなり励ましとなっていたのが、最年少で12歳のルドビゴ茨木少年でした。彼は生来利発ではありませんでしたが、長崎への旅の道中でも、いつも明るく朗らかでとても元気のいい少年でした。
 もしかすると、彼らのほうから自分たちも殉教者の仲間に加えられるように願ったのかもしれません。事実、そのように書いてある書物もあります。
いずれにしても、この二人にとっても殉教は喜びであり、彼ら自身の選びだったのです。

二人が選び26人に@

秀吉によって捕縛されたのは24人でした。長崎に向かう道中で26人になります。
それは京都にいたオルガンティノ神父が、
三人のイエズス会士の世話のためにと、
ペトロ助四郎という青年に路銀を持たせて
付き添わせたからです。彼は、わが身も顧みず奉仕に努めました。
もう一人はフランシスコ会士で伊勢の大工であったフランシスコ吉で、彼はフランシスコ会士をはじめ24人の殉教者たちが、
京都、大阪、堺の町々を引き回されたときから、長崎に護送される道中までもずっと彼らを慕い続け、身の回りの世話をしていたのです。

この二人は道中のどこかで役人の縄を受けています。おそらく強欲な役人たちが、
彼らの財布の路銀に目をつけたのでしょう。しかし彼らは殉教の恵みを受けることになったことを喜んで、むしろ進んで縄を受けてもっていた路銀を差し出したようです。

2016年08月21日

26聖人以後のクリスチャンB

ところがそのとき、
長崎の浦上には地下に潜伏したキリシタンたちがいたのです。
彼らは帳方(ちょうかた)、水方(みずかた)、聞役(ききやく)という地価組織を作って、なんと250年間、信仰を保持したのです。

26聖人以後のクリスチャンA

26聖人が殉教した翌年、
彼らに死を宣告した秀吉は死にます。
そして時代は徳川へと移り、
日本は鎖国することになります。
やがてキリスト教は全面的に禁止され、
非常に厳しい迫害と弾圧が始まるのです。

2016年08月20日

26聖人以後のクリスチャン@

1597年2月5日、
長崎の西坂の丘で
26聖人が殉教した後、
多くの人々がキリストの名のゆえに
捕らえられ殉教していきました。

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リバイバルC

真に自分を捨て自分の十字架を負って
私についてくる者たちに彼らのバトンは受け継がれ、その者たちを通して応えは必ずやってくる。リバイバルは必ずまもなくやってくると。

リバイバルB

西坂の丘には、いまも喜びが注がれています。
天の御国から流れてくる喜びです。

その丘に立って祈るたびに主は私に迫ってこられるのです。彼らが示したわたしへの愛と従順、彼らが負った十字架、彼らの祈りと願い、それらは忘れられてはいない、
その応えがこの時代に必ずやってくると。

リバイバルA

時の権力者太閤秀吉は長崎にいる多くの
キリシタンたちの信仰を捨てさせるために、彼らへの見せしめのため26人を長崎まで
連れてきて処刑したのです。
けれども、結果は秀吉の思惑とは
まったく逆になりました。

リバイバル@


26聖人は自分の十字架をしっかりと受け取り、福音宣教に生き、そして西坂の丘で十字架につけられて殉教しました。
その姿に西坂の丘に集まった
4000人とも言われる見物人たちは感動し、長崎に小さなリバイバルが起こります。
クリスチャンはもとより、信仰がはっきりしていなかった人々やキリストを信じていなかった人までもが回心し、
この後殉教していくのです。

2016年08月19日

戻り橋を渡って@

捕縛された24人は、6人のフランシスコ会士の外国人神父をはじめ、3人の日本人イエズス会士と15名の日本人信徒でした。

その中には、伝道士、伝道士見習いはもとより、元僧侶、武士や商人と3人の子供も含まれていたのです。
ただ、この最初の殉教者の中には女性は含まれていませんでした。
もちろんこの後、多くの女性が殉教していきます。

2016年08月18日

宣教E

ありもしない悪口雑言を言われても
黙して語りませんでした。
しかし、イエス・キリストの証人として
口を閉ざすことはできなかったのです。
たとえ命を失うとしても
彼らは福音を宣べ伝えることを
止めることなど考えられなかったのです。

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宣教E

ありもしない悪口雑言を言われても
黙して語りませんでした。
しかし、イエス・キリストの証人として
口を閉ざすことはできなかったのです。
たとえ命を失うとしても
彼らは福音を宣べ伝えることを
止めることなど考えられなかったのです。

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