2016年07月31日

人若し我に従わんと欲せば@

人若し我に従わんと欲せば
己を捨て十字架をとりて我に従ふべし
(マルコ8章)

 26聖人が殉教した西坂の丘に、
いまは彼らのレリーフが建っています。
レリーフは26人の殉教者が並んで彫られており、そのちょうど真ん中の下の部分に
7本の十字架とともにこの御言葉が刻まれているのです。私が西坂の丘に立って祈るたびに、この御言葉は私の心に語りかけてきます。

最後の殉教者 ペテロバプチスタA

6人の処刑は終わりました。
殉教者たちの残していった天の喜びが
そこにはいまも残っています。
 キリストの十字架のもとにいた
ローマ兵が「この方はまことに神の子であった」
と気づいたように、この後、殉教に加わった役人のうち一人が回心したといわれています。
しかしそれがだれなのかは定かではありません。もしかすると半三郎だったかもしれませんが・・・。

最後の殉教者 ペテロバプチスタA

6人の処刑は終わりました。
殉教者たちの残していった天の喜びが
そこにはいまも残っています。
 キリストの十字架のもとにいた
ローマ兵が「この方はまことに神の子であった」
と気づいたように、この後、殉教に加わった役人のうち一人が回心したといわれています。
しかしそれがだれなのかは定かではありません。もしかすると半三郎だったかもしれませんが・・・。

最後の殉教者 ペテロバプチスタ@


彼を最後にしたのは、役人たちが、
25人の仲間たちが無残に刺し殺されて
死ぬのを見れば、
彼が途中で信仰を捨てるかもしれないと
思ったからです。



しかし結果は逆でした。
彼は26人がだれひとり信仰を捨てることなく、全員最後まで主を愛して殉教することを願っていました。
彼は全員が喜んで槍を受け、天に帰っていくのを見届けることができたのです。
いまや彼は彼の霊の子供たちや同僚たちとともに天に帰るため、喜びながら槍を受けることができるのです。
彼は天を見上げて、くちびるを動かして
キリストが祈られたのと同じように
最後の祈りをしました。
「父よ。わが霊を御手にゆだねます」と。
そのとき、26人の血でそまった槍が彼を突き刺したのです。

2016年07月28日

険しい峠A

山本から彼杵に至るまでの道は峠となっていて、とても険しい道が続くのです。
またほとんど人とすれ違うことも見かけることもない道でした。
彼らの肉体は弱っていましたが、静かに黙々とその苦しい登り道を進んでいったのです。
山を越えて峠にたどり着いたとき、眼下に大村湾が一望できました。彼らはそこで休息しました。その足もとには湖のように静かな大村湾の美しい風景が広がっていました。彼らはそのすばらしい景色に感動し、それまでの疲れや苦しみが消えていくのを覚えました。地上でさえ、このような苦しい登り道のあとに、こんなにすばらしい景色があり、こうして慰めを与えてくれるならば、ましてこの殉教の旅を終えて天に帰るとき、どんなにすばらしい風景が
私たちを迎えて待っていることだろう。
彼らはそう思いながら、再び喜びと賛美が内側から湧いてくるのを感じたことでしょう。

険しい峠@

私たち夫婦は、三原からさらに下関、博多を通過して、ルドビゴ茨木が神を選んだ山本村へ行きました。
そこで祈ったあと、唐津で宿をとりました。翌日、単線の汽車とバスにゆられながら伊万里、武雄、彼杵と旅を続けました。

26人の殉教者たちもさすがにこれまでの長旅の疲れが出てきました。
もうまもなく、殉教する長崎にはいろうとする直前に、もっとも厳しいつらい道がまっていました。

家族A

このような信仰の家族が、かつて日本にあったのです。
主は再びこのような家族を、
この国に起こし始めておられるのではないでしょうか。終末のリバイバルに向けて、
迫害と殉教の時代に備えて、主はこのような家族を再び日本に建て上げておられるのです。

家族@

彼らの家族には神の愛が注がれていました。主への信仰を中心とした神の愛があったのです。彼らは尊敬し愛しあっていたのです。しかも主のためには自らの命を捧げて
家族を主にゆだねるほどの信仰でした。
また、たとえ家族のだれかを失っても、
彼らは主を信じ続けました。主を愛し続けました。彼らは天国で再会できることを知っていたからです。この希望が彼らを支えました。彼らはこの地上では旅人であり、
寄留者であることを証ししたのです。

トマス小崎B

97年1月19日の夜、三原城の牢獄で15歳の少年トマス小崎は、深夜に見張りの目を盗んで涙ながらに、この別れの手紙を母マルタに書いたのです。
しかし囚人として護送されているので
母に届ける術はありませんでした。
彼は父ミカエルにこの手紙を渡します。
父ミカエルはそれを肌着の下に身をつけました。殉教の後、父ミカエルの懐から血に染まったこの手紙を、ポルトガル人が発見したのです。

15歳の少年の心は、自分の命ではなく、
愛する母と弟たちに向けられていました。
彼は自分と父がもう間もなく死を迎えることに関しては何の恐れも心配もなかったのです。彼はむしろ喜んでいました。
天国に対してはっきりとした希望と確信を
持っていたからです。けれども残された母とまだ幼い弟のことが彼の心をよぎったことでしょう。しかし彼はその母と弟も主の御手の中にゆだねて主を信頼しました。

トマス小崎A

 「母上様、神のみ恵みに助けられながら、この手紙をしたためます。 罪標に記されている宣告分にあるように、パードレ以下私たち24名は、長崎で十字架につけられることになっています。
どうか私のことも、父上ミカエルのことも、何一つご心配くださいませんように。
パライソ(天国)で母上様とすぐにお会いできるとお待ちしております。
 たとえパードレ様がいなくても、
臨終には罪科を心から熱心に悔い改め、
イエズス・キリストの幾多のみ恵みを感謝なされば救われます。
この世ははかないものでありますから、
パライソ(天国)の永遠の全き幸福をゆめゆめ、失わぬようにお心がけください。
人が母上にいかなることをしようとも、
忍耐し、かつすべての人に多くの愛をお示しください。
それからとりわけ弟マンシオとフィリポに関しては、彼ら二人を異教徒の手にゆだねることのないように、よろしくお取り計らいください。私は母上様のことを我らの主にお願いし、おゆだねいたします。
母上から私の知っている人々によろしく申し上げてください。母上様、罪科を悔い改めることを忘れぬよう、再び重ねてお願い申し上げます。なぜなら悔い改めだけが唯一の重大なことなのですから。アダムは神にそむき、罪を犯しましたが、悔い改めとあがないによって救われました。
陰暦12月二日
安芸国三原城牢獄にて」

トマス小崎@

現在の三原城跡は新幹線三原駅
 いまから8年前の1988年の5月に
私たち夫婦は長崎に遣わされてきました 5月15日に東京で按手を受け、
臨月だった妻とともに、京都まで新幹線で行き、そこから、26聖人の足跡をたどって長崎まで来ました。
 私たちは、まず京都で戻り橋を渡り、
そこでしばらく祈りました。
そして再び新幹線に乗り、京都から大阪、そして兵庫、明石、姫路、さらに岡山、
尾道と、彼らの足跡を追いかけ、ついに三原につきました。
私たちはそこで降りて一泊したのです。

ここは殉教した26聖人の一人であった
トマス小崎がお母さんに手紙をしたためたところです。彼はまだ15歳の少年でしたが、48歳の父ミカエル小崎とともに
殉教したのです。伊勢生まれの弓師であった父ミカエル小崎とともに、彼は西坂の丘で十字架にかけられて処刑されるのです。

少年ルドビコ茨木D

ルドビゴ茨木は刑場である西坂の丘についたとき、自分がかかるために用意された十字架に走り寄り、それを抱きしめて頬ずりし、口づけしたのです。そして十字架の上にかけられたとき、かたわらで十字架にかけられていた13歳の少年アントニオとともに、高らかに詩篇113篇を、
歌ったのです。
「子らよ。主をほめたたえまつれ」と
(新改訳は、主のしもべたちよ)
そのとき西坂の丘に天国が降りてきました。
いままで見せしめのために極悪犯罪人がいつも殺されていた苦しみと悲しみとの地獄の場所に、天国が降りてきたのです。

少年ルドビコ茨木C

だ山本の村へ、足を運びました。山本の村を流れている川の堤防に腰をかけながら、天を見上げて祈っていると、深い神のご臨在がいつも注がれてきます。この少年の目は朽ちることのない天に向けられていたのです。
彼は天がどれほど確かな報いであるかを知っていたのです。
だからこそ彼は地上のどんな誘惑にも動じませんでした。
ごちそうにもドレスにも長寿や大名という肩書きにも・・・
そう、彼は確かに知っていたいたのです。
天の報いの確かさを。

少年ルドビコ茨木C

だ山本の村へ、足を運びました。山本の村を流れている川の堤防に腰をかけながら、天を見上げて祈っていると、深い神のご臨在がいつも注がれてきます。この少年の目は朽ちることのない天に向けられていたのです。
彼は天がどれほど確かな報いであるかを知っていたのです。
だからこそ彼は地上のどんな誘惑にも動じませんでした。
ごちそうにもドレスにも長寿や大名という肩書きにも・・・
そう、彼は確かに知っていたいたのです。
天の報いの確かさを。

少年ルドビコ茨木B

「キリシタンを捨てることが条件だぞ。
それ以外のことは何でも許してやろう。
大目に見る。しかしいまのままの信仰ではだめだ。おれの養子になれ、あともう50年は生きられるぞ。おいしいものも食べられる。きれいな服も着れる。そのうえ、刀を差して武士になり、大名にもなれるぞ」

 半三郎は何とかしてルドビゴを助けようと言いました。
しかし、ルドビゴ少年は半三郎の目をしっかりと見てこう言いました。
「そうしてまで私は生きのびたいとは思いませぬ。なぜなら、終わりなき永遠の命を、たちまち滅びるつかのまの肉体の命とは代えられないからです。
 お武家さま、あなたのほうこそキリシタンにおなりになり、これから私が参りますパライソにおいでなさるのが、ずっとよいことです。あなたもキリストを信じて、私と一緒に天国に参りましょう」

少年ルドビコ茨木A

彼はルドビゴに言ったのです。
「お前の命は私の掌の中にある。もし、私に仕える気があれば、お前を助けてつかわそうぞ。私の養子になれ」
ルドビゴ少年は答えました。「私はペトロ・バプチスタ神父(26人のリーダー)に従いまする。」

 それを聞いた神父は、
「キリシタンとしての生活が許されるなら、喜んでそれに従いなされ。」
と言いました。
それで、ルドビゴ少年は半三郎に答えました。
「ありがとうございます。それでは養子にさせていただきまする。
ただ一つだけお願いがあります。
キリシタンとしていまのままの信仰を持ち続けられるならば・・・」

少年ルドビコ茨木A

彼はルドビゴに言ったのです。
「お前の命は私の掌の中にある。もし、私に仕える気があれば、お前を助けてつかわそうぞ。私の養子になれ」
ルドビゴ少年は答えました。「私はペトロ・バプチスタ神父(26人のリーダー)に従いまする。」

 それを聞いた神父は、
「キリシタンとしての生活が許されるなら、喜んでそれに従いなされ。」
と言いました。
それで、ルドビゴ少年は半三郎に答えました。
「ありがとうございます。それでは養子にさせていただきまする。
ただ一つだけお願いがあります。
キリシタンとしていまのままの信仰を持ち続けられるならば・・・」

少年ルドビコ茨木@

 2月1日に、唐津湾に遠からぬ村の山本で、殉教者の一行は、寺沢半三郎に引き渡されました。
半三郎は唐津城主寺沢広高の弟であり、
処刑の執行責任者である長崎奉行の職にありました。
  彼は名簿と囚人とを照合して受け取りましたが、そのとき彼の心は2つのことで痛んだのです。主人の中に彼の友人のパウロ三木と三人の少年がいたことでした。
とりわけ、元気で、いたいけな12歳のルドビゴ茨木を処刑にしなければならないと思うと彼の心は暗く重たくなりました。

2人が選び26人にA

下関についたときには、殉教者たちは26人となり、この二人ーーペトロ助四郎とフランシスコ吉ーーも囚人になっていたのです。しかし彼らの顔はきっと輝いていたでしょう。主とともにいる喜びと天国への希望に燃えて・・・・。

 26人となった殉教者の一行は、大阪から長崎までの約800キロにわたる長い距離を、ほとんど陸路で旅を続けました。
冬のさなかでもあり、道はぬかるみ、非常な難渋を極めたようです。
その苦しみを和らげ、大きな慰めとなり励ましとなっていたのが、最年少で12歳のルドビゴ茨木少年でした。彼は生来利発ではありませんでしたが、長崎への旅の道中でも、いつも明るく朗らかでとても元気のいい少年でした。
 もしかすると、彼らのほうから自分たちも殉教者の仲間に加えられるように願ったのかもしれません。事実、そのように書いてある書物もあります。
いずれにしても、この二人にとっても殉教は喜びであり、彼ら自身の選びだったのです。

2人が選び26人に@

秀吉によって捕縛されたのは24人でした。長崎に向かう道中で26人になります。
それは京都にいたオルガンティノ神父が、
三人のイエズス会士の世話のためにと、
ペトロ助四郎という青年に路銀を持たせて
付き添わせたからです。彼は、わが身も顧みず奉仕に努めました。
もう一人はフランシスコ会士で伊勢の大工であったフランシスコ吉で、彼はフランシスコ会士をはじめ24人の殉教者たちが、
京都、大阪、堺の町々を引き回されたときから、長崎に護送される道中までもずっと彼らを慕い続け、身の回りの世話をしていたのです。

この二人は道中のどこかで役人の縄を受けています。おそらく強欲な役人たちが、
彼らの財布の路銀に目をつけたのでしょう。しかし彼らは殉教の恵みを受けることになったことを喜んで、むしろ進んで縄を受けてもっていた路銀を差し出したようです。

戻り橋を渡って@

捕縛された24人は、6人のフランシスコ会士の外国人神父をはじめ、3人の日本人イエズス会士と15名の日本人信徒でした。
その中には、伝道士、伝道士見習いはもとより、元僧侶、武士や商人と3人の子供も含まれていたのです。
ただ、この最初の殉教者の中には女性は含まれていませんでした。
もちろんこの後、多くの女性が殉教していきます。

神を選んだマチャスA

捕縛吏の一隊は、捕縛吏名簿を作って京都にあった教会に踏み込みました。
捕縛吏たちは、捕縛吏名簿を読み上げながら、返答する信徒の人定めをしていました。
そのとき一人の信徒が返答しなかったのです。マチヤスという料理人でしたが、
彼は答えませんでした。
すると同じ洗礼名を持っているまったくの別人が「私の名もマチヤスです。」と
自ら捕縛吏の前に進み出てきたのです。
役人というのは、今も昔も変わらないようです。役人たちはとにかく頭数をそろえればそれでよかったので、捕縛者名簿に載っている料理人マチヤスを捜そうともせず、
喜んでこの男を捕らえました。
こうして、彼は役人たちに受け入れられ、
殉教者の群れの中に神によって受け入れられたのです。

神を選んだマチャス@


捕縛吏の一隊は、捕縛吏名簿を作って京都にあった教会に踏み込みました。
捕縛吏たちは、捕縛吏名簿を読み上げながら、返答する信徒の人定めをしていました。
そのとき一人の信徒が返答しなかったのです。マチヤスという料理人でしたが、
彼は答えませんでした。
すると同じ洗礼名を持っているまったくの別人が「私の名もマチヤスです。」と
自ら捕縛吏の前に進み出てきたのです。
役人というのは、今も昔も変わらないようです。役人たちはとにかく頭数をそろえればそれでよかったので、捕縛者名簿に載っている料理人マチヤスを捜そうともせず、
喜んでこの男を捕らえました。
こうして、彼は役人たちに受け入れられ、
殉教者の群れの中に神によって受け入れられたのです。

ペテロバプチスタの涙@

2月4日の夕方のことです。
一同が平和な景色を眺めながら低い声でこれまでの出来事などを話し合っているとき、26人のリーダーであるペトロ・バプチスタ神父は少し離れて岩の上に腰を下ろしていました。
そして静かに黙想していたのです。しばらくすると彼の目から涙がとめどもなく流れてきました。
「いまは、死地へ向かって進んでいる。
イエス・キリストを伝えたがために時分は死ぬ。
これはこの上もない喜びである。
しかしこの国の宣教は始められたばかりなのに、それを受け継ぐべき同僚までもがともに死んでいくのだ。
この国の宣教の働きはどうなるのだろう。
自分が全身全霊を捧げたこの働きがガラガラと崩壊していく。」

浦上四番崩れ 一村総流記B

あまりにも突然だったので出かけている者もあり、
5日に改めてほしいと信者が申出、
役所もそれを許しました。