2016年06月30日

浦上四番崩れA

その結果、浦上のキリシタンたちはついに捕らえられ、牢に入れられてしまいました。
まず指導者の68人が最初に捕まりました。
そしてこの問題を解決できぬまま、
江戸幕府は倒れてしまうのです。


かわった明治新政府は神道を中心に天皇政治を目指したため、キリシタンに対しては迫害の手をゆるめるどころか、ますます厳しくなりました。
そのため、キリシタンへの迫害と弾圧は外交上の問題となりました。
明治6年、すなわち1873年になってやっとこの問題は解決し、キリストを信じることが認められたのです。
しかしそのためには
浦上四番崩れ」と言われている明治政府によるキリシタン弾圧の中での厳しい迫害と殉教を通過しなければならなかったのです。

2016年06月28日

浦上四番崩れ@

今月から浦上四番崩れについて書いていきたいと思いますが、その前にいままでに書いてきたことを簡単にまとめておきます。
激しい迫害の中で潜伏したキリシタンたちは、バスチャンの残した予告を信じ7代250年の間、告白を聞いてくれる神父が来るのを待ち続けていました。
そして予告どおり、7代250年たったときに、神父がついにやってきました。

「ワタシノムネアナタノトオナジ」
この言葉をもって復活したキリシタンたちは、うれしくてたまりません。
それまで隠れて待ち続けてきたキリシタンたちは、毎日のように天主堂に通い、
熱心に祈り、御言葉を学びました。
けれどもまだ、日本はキリスト教を禁止していたのです。

2016年06月27日

バスチャンの4つの予告預言D

佐鉢は臨終のとき、
各戸の家頭を枕元に集め、
訓して言いました。
「やがて黒船に乗ってくる人とひとつ心になれ」と。


このように「7代たったらコンヘソーロがやってくる」
という預言の言葉は、
潜伏しているキリシタンたちにとって、
とても大きな希望となっていたのです。

そしてその予告のとおりに7代目に当たる
幕末に黒船がやって来て、
大浦天主堂が建ち、
神父が来てキリシタンの復活がおこるのです。

2016年06月26日

バスチャンの4つの予告預言C

ところがある日、大きな黒船がやって来たと言って人々が騒いでいます。
彼は小高い丘に登って、そのところを打ち眺めました。

「これじゃ。バスチャンさまの予言の黒船じゃ。
じゃが、わしはコンへソーロに会うてコンピサンを申すまで生きてはおらぬ。」

そう言って彼は涙をこぼしたのです。

また長崎港の近くに善谷という
カトリック信者の村があります。
もと禅定谷といっていましたが、
左八という水方が引率して
家族と2人の独身者が移住してきました。

2016年06月25日

バスチャンの4つの予告預言B

彼は涙を流してこう言ったのです。
「黒船の渡来も遠いことではないぞ。
コンヘソーロが来て、
コンピサン(告白)をきき、
罪科の赦しをいただける日は近づいた。
オラショも教えも大声でできるようになるぞ。
牛肉も食べられる世になるが、
それは金持ちや上っ方ばかりで
われわれ貧乏人の口にはのるまい。
その日が近づいたというのに、
このわしは何と不幸じゃ。
コンヘソーロに会うて
コンピサンを申すこともできないで死んでしまうが、
お前たち若いものは。
その時代を見ることができるのじゃ。」

2016年06月24日

バスチャンの4つ予告預言A

キリシタンたちは、
この四つの預言の言葉を大切に抱きながら、
告白を聞いてくれる神父がやってきて、
大声でオラショ(お祈り)すつことのできる日を
7代250年のあいだ信じて待ち続けたのです。


バスチャンから7代たったときに
長崎の外海というところに形右衛門というひとりの
老人がいました。
彼は信仰篤い人で「コンヘソーロ(神父)」が来るのを
ずっと待っていました。

バスチャンの4つの予告預言@

バスチャンが残した4つの予告とは
次のようなものでした。

一、 お前たちを7代までは、
   わが子とみなすがそれからあとはアニマ(霊魂)の
   助かりが困難になる。

二、 コンヘソーロ(告白を聞く神父)が大きな黒船に
   乗ってやってくる。
   毎週でもコンヒサン(告白)ができる。

三、 どこでも大声でキリシタンの歌をうたって
   歩ける時代が来る。

四、 道でゼンチョ(ポルトガル語で教外者)
   に出会うと、先方が道をゆずるようになる。

2016年06月22日

バスチャンの日繰りD

このバスチャンについての伝承が、
どこまで信憑性を持つものかはわかりませんが、
確かに「バスチャンの日繰りがいまも残っており、
それがキリシタンたちにとって
どれほど大きな力であったかということは、
決して否定することのできない事実なのです。
そしてそれはバスチャンの切なる断食を伴った祈りを通して
主が与えられたものだったのです。


1人の伝道師の切なる祈りが
その後250年間続いた迫害の中で
人々の信仰を支える力となりました。
1人の真実な祈りは主の心を動かし、
その祈りの答えは多くの人々の信仰をも
引き上げ建て上げていきます。

2016年06月20日

バスチャンの日繰りB

バスチャンはジワンという神父の弟子になって
ともに伝道していましたが、
あるときジワンは国に帰るといって
姿を消してしまいました。
バスチャンはすでに日繰りの
繰り方をジワンから教えられていましたが、
まだ十分には納得していませんでした。

それで彼は21日間断食し、
「もう一度ジワンが帰って来て教えてください。」と
主に祈ったところ、
どこからかジワンがあ帰ってきて教えてくれたのです。
そしてバスチャンと別れの水杯をして、
海上を歩いて遠くに去って行ったと言われています。

2016年06月19日

バスチャンの日繰りA

彼は「バスチャンさまの日繰り」という、
1934年の大陰暦によるキリシタン暦
(受難週や復活祭、聖霊降臨日や降誕節など)
を残しました。
この影響は非常に大きなものがあります。
長い迫害の中で、
浦上はもとより外海・五島・長崎地方のキリシタンたちが
信仰を伝承しえた力のひとつは、
この「日繰り」であったと言っても
決して過言ではないのです。
ではどのようにしてこの「日繰り」はできたのでしょう。


バスチャンの日繰り@

この地下組織のほかに、
もうひとつ彼らが250年間
信仰の灯をともし続けるのに大きな原動力となったものがあります。
それは神父たちが殉教してしまった後に、
信徒を指導していた日本人伝道士
バスチャンの存在でした。
彼の洗礼名はセバスチャンと言いましたが、
略してバスチャンと呼ばれていました。
彼の日本名はいまもわかっていません。

浦上の地下組織B

このような帳方・水方・聞役という指導系統ができていたのです。
250年に及ぶ長い間1人の神父もいないのに信者たちが
信仰を伝え継承できたのは、ひとつにはこの組織のゆえでした。
(このような地下組織は浦上ばかりではなく、外海地方、五島、平戸、生月地方のキリシタンたちも持っていました。)

2016年06月18日

浦上の地下組織A


A水方・・・各郷に一人いて、
帳方から伝えられた祝日や祈り、
教義を聞き役に伝える。
洗礼を授けるのは
水方の役目になっていました。

聞き役・・・各字に一人いて、
一戸一戸の信者を掌握していて、
水方から伝えられたことを各人に流す。

2016年06月17日

浦上の地下組織@


信徒発見までの7代250年間ものあいだ、
何が浦上のキリシタンたちに潜伏の中で
信仰を保持することを可能にさせたのでしょうか。
それには2つの大きな理由があると思われます。
まず第一に、彼らの作った地下組織でした。
それは次の3役で構成されていました。

@帳方(ちょうかた)・・・浦上に一人いて、
日繰り(バスチャン暦)を所持し、
1年の祝日や教会行事の日を繰り出し、
また祈りや教義などを伝承する。

2016年06月16日

崩れB


「浦上二番崩れ」は
1839年に転びキリシタンの密告によって勃発し、
浦上キリシタンの秘密組織の最高指揮者である
帳方の利五郎をはじめ、
村民の中心的指導者ばかりが捕らえられました。
このときも結局は、
全員釈放となりました。

1860年に事件は決着しましたが、
基地蔵は牢死、子の利久は所払いになり、
初代右衛門から吉蔵まで七代続いた
帳方は、その後置かれなくなり、
1865年の信徒発見を迎えます。
水方も4人のうち一人だけが生き残りました。

崩れA


浦上においても
潜伏していた250年の間には
何度かの崩れが起こりました。
紙面の都合上
詳しくは書けませんが簡単に書いておきます。
1790年に19人が捕らえられた
「浦上一番れ」があります。
いったん証拠不十分ということで
出牢放免となり、
92年9人の者が
再び入牢させられるという曲折をへて、
95年にこの事件は落着し、全員放免されます


崩れ@


キリシタンの潜伏時代には、
たびたびキリシタンの検挙事件が起こりました。
嘱託銀(高札に記された訴人への賞金)ほしさの密告、
いわゆるユダによるものが多かったようです。
大量検挙によって潜伏組織が崩壊したことを
「崩れ」と呼びます。
「崩れ」は大村藩の郡崩れや豊後崩れ、
そして美濃、尾張地方での濃尾崩れなど
各地で起こりました。


26聖人以後のクリスチャンD



1614年1月31日、
徳川家康は禁教令を発布し、
すべての宣教師は追放されることになりました。
そして250年にわたる
禁教と弾圧、
迫害と殉教、
キリシタンの潜伏の時代へと入ることになったのです。

2016年06月15日

26聖人以後のクリスチャンC

イエズス会の知行地として
浦上を寄進したことによって、
浦上は名実ともに
キリシタンの村になったのです。
しかし1587年に秀吉が伴天連(バテレン)(宣教師追放令を出し、
翌88年に浦上は長崎とともに直轄領となります。
1614年1月31日、
徳川家康は禁教令を発布し、
すべての宣教師は追放されることになりました。
そして250年にわたる
禁教と弾圧、
迫害と殉教、
キリシタンの潜伏の時代へと入ることになったのです。

26聖人以後のクリスチャンB

ところがそのとき、
長崎の浦上には地下に潜伏したキリシタンたちがいたのです。
彼らは帳方(ちょうかた)、水方(みずかた)、聞役(ききやく)という地価組織を作って、なんと250年間、信仰を保持したのです。
これからしばらくの間、
この浦上のキリシタンたちに
目をとめていきたいと思います。

1567年頃から長崎にキリシタンが伝えられ、
浦上にも布教が行なわれました。

26聖人以後のクリスチャンA

幕府と奉行はあらゆる方法でキリシタンを見つけ出し、
彼らを転ばせるために拷問し、
どうしても転ばない者は
とても残酷な方法で殺していきました。
こうして、日本に命がけで来ていた宣教師たちも
ついに捕らえられ追放され、
殺されていきました。
キリシタンはもはやいないと思われるまで、
徹底した弾圧がなされたのです。

2016年06月14日

26聖人以後のクリスチャン@

1597年2月5日、
長崎の西坂の丘で
26聖人が殉教した後、
多くの人々がキリストの名のゆえに
捕らえられ殉教していきました。
26聖人が殉教した翌年、
彼らに死を宣告した秀吉は死にます。
そして時代は徳川へと移り、
日本は鎖国することになります。
やがてキリスト教は全面的に禁止され、
非常に厳しい迫害と弾圧が始まるのです。

2016年06月13日

人若し我に従わんと欲せばC

26聖人たちは悪口雑言ありもしないことを言われたうえ、
殺されることになったのです。
これは彼らにとっては十字架でした。
しかし彼らはその殉教という十字架を喜んで受け取り、
黙って縄を受けたのです。
キリストがパリサイ人や律法学者たちの
妬みによって十字架につけられたのと同じよう

2016年06月12日

人若し我に従わんと欲せばB

26聖人が殉教することになった直接のきっかけは
サン・フェリペ号の遭難でした。
けれども時の権力者太閤秀吉が
彼らに処刑を命じた原因はそればかりでなく、
ほかにもあります。
いくつか考えられますが、
その一つはまちがいなく
元仏教僧だった施薬院全宗(せやくんぜんしゅう)の
妬みと敵対心の諌言のためでした。
まだ、ポルトガルとイスパニア(スペイン)の貿易競争から来る
誹謗合戦の結果でもありました。

2016年06月11日

人若し我に従わんと欲せばB

26聖人が殉教することになった直接のきっかけは
サン・フェリペ号の遭難でした。
けれども時の権力者太閤秀吉が
彼らに処刑を命じた原因はそればかりでなく、
ほかにもあります。
いくつか考えられますが、
その一つはまちがいなく
元仏教僧だった施薬院全宗(せやくんぜんしゅう)の
妬みと敵対心の諌言のためでした。
まだ、ポルトガルとイスパニア(スペイン)の貿易競争から来る
誹謗合戦の結果でもありました。