2015年11月30日

キリスト教邪教観@

改まり1868年、明治新政府は沢宣嘉を九州鎮撫総督兼外国事務総督に任命します。彼は井上聞多(馨)を連れて3月7日に長崎に着任します。
新政府は4月7日に五榜の掲示を掲げ神道国教主義の政府方針を明らかにしました。
つまり神道により民心を一つにまとめようとしたのです。それは当然キリシタン弾圧を決定づけました。
五榜の掲示の第三札には次のように書かれていました。一、切支丹邪宗門之儀は堅く御禁制たり。若不審なる者之有れば、その筋之役所に申出可、御褒美下さる可事。 慶応四年三月    太政官

改心戻しB

ところが、庄屋は、怒りにわなわなとふるえて、大声でどなりつけました。
「この大ばかもの、あれだけの責め苦で転んだものが、改心戻しをすれば、その十倍もひどい責め苦にかけられ、しのぐことなどできるわけがない。その願いは取り上げるわけにはゆかぬ」


「ぜひに願いをいたしまつる。もし庄屋さまが受け付けてくださらないならば、代官に直訴をいたしまつる。」


庄屋はやむなく、その夜のうちに彼らの名簿を添えて長崎代官所に届けました。数日後、彼らは奉行所に呼び出されました。殉教覚悟で彼らは出頭しました。

改心戻しA

平生は強そうに見え、教理もよく知っている伝道士たちがみな転んでしまったのに、
無学で弱々しく見えた仙右衛門がひとり
信仰を守りとおしたので、転んだ連中は、恥ずかしくてたまらなくなりました。

それで仙右衛門にできたのなら、自分にもできないはずはないと、女性五人を含む38名の者が庄屋の門をたたいて「改心戻し」を申し出たのです。
改心戻しとは、一度転んで改宗しキリストを捨てたことを取り消して、もとのキリストへの信仰に戻すことです。

改心戻しA

平生は強そうに見え、教理もよく知っている伝道士たちがみな転んでしまったのに、
無学で弱々しく見えた仙右衛門がひとり
信仰を守りとおしたので、転んだ連中は、恥ずかしくてたまらなくなりました。

それで仙右衛門にできたのなら、自分にもできないはずはないと、女性五人を含む38名の者が庄屋の門をたたいて「改心戻し」を申し出たのです。
改心戻しとは、一度転んで改宗しキリストを捨てたことを取り消して、もとのキリストへの信仰に戻すことです。

2015年11月29日

改心戻し@

転んで先に帰った人たちは、家族から「信仰を捨てたものはきっとテングがついたにちがいない。家に入れるといっしょにテングもついてきて、みんな転んでしまう。

だから家に入れるな。もしあなたが家にいるなら私がでる。」と言われ、家にも入れてもらえませんでした。

かといって外にもおられず、天主を捨てたという思いで、身一つ置くところなく、
昼も夜も山の中で3日3晩泣いていました。そこへ高木仙右衛門が帰って来て、まるで凱旋将軍のように村人が迎えていました。


祈りによってB

いやむしろ彼は弱かったからこそ、
断食までして主イエスさまと聖霊さまに
真剣に助けを求めたのです。
そしてその祈りは主に聞き届けられ、彼はどんなに目の前でひどい責め苦を見せられ、他の者たちが目の前で次々に転んでいっても転ばなかったのです。


主はほかのだれでもなく、字も読めず無学であっても、祈り、主にすがるものに助けを与え、日本の信仰の自由を勝ち取らせてくださいました。

祈りによってA

「どんな強い人間でも、あんな目にあわされたら、人間の力だけではとてもしのぐことはできません。私が転んだら天主さま、
また日本のたくさんの殉教者に対して申しわけないと思い、断食の祈りをささげ、
聖霊さまのお助けを祈っておりました。
聖霊さまのお力でしのげたのでございましょう」と仙右衛門は答えました。



彼がひとりだけ転ばずに信仰を守りとおせたのは、特別に彼の信仰が強かったからではなく、彼が主にすがり、自分の弱さを覚えて祈っていたからでした。

2015年11月28日

祈りによって1

ただひとり高木仙右衛門は転びませんでした。この人は農民でした。
字は読めず、特別な学問を受けたわけでもなく、見た目には弱そうな人で、仲間さえ、どこからそんな勇気が出てくるのか信じられないぐらいでした。

彼はただ単純に教えられたことを信じて守っていただけでした。毎金曜日にはキリストのご受難を思って断食をし、祈りをしている人でした。
仙右衛門は転んで牢を出された人より3日送れて、転ばず信仰を守りとおし、村(乙名)預けということで浦上の村に帰されました。そのとき村の人が仙右衛門に、どうしてあんなひどい拷問をしのぐことができたのですかと聞きました。

祈りによって1


ただひとり高木仙右衛門は転びませんでした。この人は農民でした。
字は読めず、特別な学問を受けたわけでもなく、見た目には弱そうな人で、仲間さえ、どこからそんな勇気が出てくるのか信じられないぐらいでした。

彼はただ単純に教えられたことを信じて守っていただけでした。毎金曜日にはキリストのご受難を思って断食をし、祈りをしている人でした。

仙右衛門は転んで牢を出された人より3日送れて、転ばず信仰を守りとおし、村(乙名)預けということで浦上の村に帰されました。そのとき村の人が仙右衛門に、どうしてあんなひどい拷問をしのぐことができたのですかと聞きました。

過酷な拷問C

役人は「あれを見たか、あのような体になってから改心するよりも、いま体の痛まぬうちに改心したらどうだ」と、これから拷問を受けようとしている5人の者や、まだ転び証文に爪印を押していない人たちに言いました。

それで、これから拷問を受けようとしていた5人もすっかり気を落としてしまい、残っていた人たちもみんな爪印を押してしまったのです。ただひとり、高木仙右衛門だけを残して。

過酷な拷問C

役人は「あれを見たか、あのような体になってから改心するよりも、いま体の痛まぬうちに改心したらどうだ」と、これから拷問を受けようとしている5人の者や、まだ転び証文に爪印を押していない人たちに言いました。

それで、これから拷問を受けようとしていた5人もすっかり気を落としてしまい、残っていた人たちもみんな爪印を押してしまったのです。ただひとり、高木仙右衛門だけを残して。

2015年11月26日

過酷な拷問B

役人は「あれを見たか、あのような体になってから改心するよりも、いま体を痛まぬうちに改心したらどうだ」とこれから拷問を受けようとしている5人の者や、まだ転び証文に爪印を押していない人たちに言いました。

続いて次の5人も同じ目にあわせようとしました。この拷問のありさまを見せられていた人たちの何人かは、「これから毎日こんな目にあわされるなら、とても信仰を守りとおすことはできない」と、転び証文の自分の名前の下に爪印を押したのです。
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過酷な拷問B

役人は「あれを見たか、あのような体になってから改心するよりも、いま体を痛まぬうちに改心したらどうだ」とこれから拷問を受けようとしている5人の者や、まだ転び証文に爪印を押していない人たちに言いました。

続いて次の5人も同じ目にあわせようとしました。この拷問のありさまを見せられていた人たちの何人かは、「これから毎日こんな目にあわされるなら、とても信仰を守りとおすことはできない」と、転び証文の自分の名前の下に爪印を押したのです。
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過酷な拷問A

水をかけると縄は、短く縮み、
肉にくい入り、皮膚は紫色に変わります。
そしてまた気絶してしまいます。
こうして6人は門口に引き出され、
捨て物のように転がされました。


続いて次の5人も同じ目にあわせようとしました。
この拷問のありさまを見せられていた人たちの何人かは、「これから毎日こんな目にあわされるなら、とても信仰を守り通すことはできない」と、転び証文の自分の名前の下に爪印を押したのです。
それを見ていまひどい目にあった6人も
すっかり気を落としてしまい、爪印を押してしまいました。

過酷な拷問@

駿河問いという責め苦(ドドイとも呼ばれる)を受けるため、6人が選ばれました。
これは両足を背中にそらせて、両足首と両手首それに首、胸にも縄を掛けてそれを背中の一箇所でくくり寄せ、その縄を梁に巻き上げ、身体を弓のようにそらせて、つるすのです。
そして何回も身体を回して釣縄によりをかけて、コマのように勢いをつけて振り回し、次によりを戻して逆に回転させます。



そして下に立った役人が棒とむちでさんざんに打ちたたきます。
するとほとんど気絶してしまいます。
それから地面に引きおろして水をかけ、
正気に戻してくり返すのです。

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捕縛C

けれども桜町牢での拷問は凄惨をきわめ、
その結果、ついに高木仙右衛門ただひとりを残して82人が転んでしまうのです。

2015年11月25日

捕縛B

そうしている間にも、「入牢者には拷問を加えない」という外交団との約束は破られ、長崎では捕らえられた68人に説得や
ひどい拷問が加えられました。


また彼らが捕らえられたあとにも、浦上では、死人が出たとき坊さんを呼ばない人たちが次々に桜町牢に入れられていました。

10月5日、68人は再び小島牢から桜町牢に移されましたが、そのときには彼らは83名となり、2坪の四畳半の牢に38人が詰め込まれる有様でした。
それでも彼らは責められても苦しめられても信仰をこのときまでは守っていたのです。

捕縛A

しかし、長崎奉行は浦上の農民たちが
囚人たちを奪い返しに来るかもしれないと思い、2日後には小島に新牢を造りそこに移しました。
そこから仙右衛門、与五郎、寅五郎、又市などは取調のためにたびたび西役所に引き出されました。
一方、キリシタンであるという信仰の問題だけで捕縛投獄されたことに在留外国人は衝撃を覚え、各国の領事は奉行に抗議しました。さらにこの問題は幕府と各国外交団に移され、毎日のように議論されました。
しかしキリシタン邪教観は強く、なかなか解決しませんでした。


捕縛A

しかし、長崎奉行は浦上の農民たちが
囚人たちを奪い返しに来るかもしれないと思い、2日後には小島に新牢を造りそこに移しました。
そこから仙右衛門、与五郎、寅五郎、又市などは取調のためにたびたび西役所に引き出されました。
一方、キリシタンであるという信仰の問題だけで捕縛投獄されたことに在留外国人は衝撃を覚え、各国の領事は奉行に抗議しました。さらにこの問題は幕府と各国外交団に移され、毎日のように議論されました。
しかしキリシタン邪教観は強く、なかなか解決しませんでした。


捕縛@

1867年7月15日の早朝3時ごろ、
大雨をついて捕手たちは浦上の地に
踏み込み、68人が捕らえられました。
これが「浦上四番崩れ」の始まりです。


彼らは桜町牢に入れられました。
この桜町牢はもともと教会のあったところですが、1614年の迫害のときに壊され、そのあとに牢獄が造られて、迫害時代に多くの神父たちや信者たちが苦しみをしのぎ殉教へ旅立っていったところです。

浦上四番崩れA

その結果、浦上のキリシタンたちはついに捕らえられ、牢に入れられてしまいました。
まず指導者の68人が最初に捕まりました。
そしてこの問題を解決できぬまま、
江戸幕府は倒れてしまうのです。


かわった明治新政府は神道を中心に天皇政治を目指したため、キリシタンに対しては迫害の手をゆるめるどころか、ますます厳しくなりました。
そのため、キリシタンへの迫害と弾圧は外交上の問題となりました。
明治6年、すなわち1873年になってやっとこの問題は解決し、キリストを信じることが認められたのです。
しかしそのためには
浦上四番崩れ」と言われている明治政府によるキリシタン弾圧の中での厳しい迫害と殉教を通過しなければならなかったのです。

浦上四番崩れ@

今月から浦上四番崩れについて書いていきたいと思いますが、その前にいままでに書いてきたことを簡単にまとめておきます。
激しい迫害の中で潜伏したキリシタンたちは、バスチャンの残した予告を信じ7代250年の間、告白を聞いてくれる神父が来るのを待ち続けていました。
そして予告どおり、7代250年たったときに、神父がついにやってきました。

「ワタシノムネアナタノトオナジ」
この言葉をもって復活したキリシタンたちは、うれしくてたまりません。
それまで隠れて待ち続けてきたキリシタンたちは、毎日のように天主堂に通い、
熱心に祈り、御言葉を学びました。
けれどもまだ、日本はキリスト教を禁止していたのです。

2015年11月24日

さらに迫害の後A





来月からこの浦上四番崩れに関して
詳しく見ていきたいと思います。
私たちはいまこんなにも自由にキリストを
信じることができますが、
それは彼らの迫害の中での主への従順と
その結果もたらされた尊い殉教の上にあることを
私たちはそこで知ることでしょう。

殉教ブログ.jpg

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さらに迫害の後@

しかし、彼らが信じて待ち続けた大声でキリシタンの歌を歌って歩ける喜びを得るためには、1867年に始まった「浦上四番崩れ」とそれに続いて起こった大村領木場の三番崩れ、悲惨極まる五島崩れ、外海や伊王島、陰の尾島、大山、善長次などの離島僻地にまでおよんだ残酷な迫害を、忍びながら通過しなければならなかったのです。
そして、その中には、殉教する者たちも出ました。


この国が鎖国を解き、
250年以上も続けた
キリシタン弾圧と迫害をやめて
キリストを信じる信仰の自由を得るためには、
再び殉教の血が流されなければならなかったのでした。


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バスチャンの4つの予告預言D

佐鉢は臨終のとき、
各戸の家頭を枕元に集め、
訓して言いました。
「やがて黒船に乗ってくる人とひとつ心になれ」と。


このように「7代たったらコンヘソーロがやってくる」
という預言の言葉は、
潜伏しているキリシタンたちにとって、
とても大きな希望となっていたのです。

そしてその予告のとおりに7代目に当たる
幕末に黒船がやって来て、
大浦天主堂が建ち、
神父が来てキリシタンの復活がおこるのです。