2015年10月25日

最初の殉教者 フェリペ⑺

神の選びというのは不思議です。
日本で最初にキリストのために命を捧げたのは、日本人ではなく、外国人(メキシコ人)だったのです。
しかも日本に来るつもりでなかった者をあえて神は選ばれました。
6人の外国人神父の中で、彼だけは自分でこの国に来ることを選んだのではなかったのです。
もちろん人から強制されたのでもありません。
神ご自身が彼を選ばれ、この国の殉教者として召し出されたのです。

2015年10月21日

最初の殉教者 フェリペE

彼は自分の人生に許されたすべてのことを心から感謝して受け入れたのです。
メキシコに向かっていたのに、日本に難船したことも、司祭叙階の代わりに、刑執行人に渡されたのも、すべてのことのなかに彼は主を認め、主の御手を見ていたのです。

2015年10月19日

最初の殉教者 フェリペD


彼はすべてのことのなかに神のみ手を見ていたからです。
「自分のような本来司祭になる資格さえもないようなものが殉教の恵みに預かることができるのは、ただただ主イエス・キリストの深いお恵みによるのです。
サン・フェリペ号が難船したのは、この私を救い、殉教の恵みに入れるため、主が許されたのです。」

最初の殉教者 フェリペC

主はフェリペをこの日本の最初の殉教者に選ばれました。

彼は決して優等生ではありませんでした。
いえそれどころか本当は司祭になれなかったかもしれない落ちこぼれだったのです。
その彼を主は選ばれたのです。
彼が選んだのではありませんでした。
むしろ彼にとっては強いられた十字架でした。
彼には自分で選ぶ余地はなかったからです。
それでも彼は喜んでいました。
彼はすべてのことのなかに神の御手を見ていたからです。

最初の殉教者 フェリペB

それから2年たったときに修院長はフェリペに司祭叙階(司祭になるための任命按手式)のために再びメキシコに戻るように命じました。
そのときに彼の乗ったガレオン船「サン・フェリペ号」がメキシコに向かう途中に難船し、日本の土佐沖に漂着したのです。
こうして日本に最後に来たフェリペが、しかも日本に来るつもりでなかったフェリペが、日本で最初の殉教者になりました。
時にフェリペ24歳。
彼は日本に来てまだ4ヶ月しかたっていませんでした。

2015年10月18日

最初の殉教者 フェリペA

26人のうちで最初に槍を受けて殉教したのは、メキシコ人のフランシスコ会修道士フェリペでした。
彼のつけられていた十字架の支え木が下に寄りすぎていたので全身の重みが鉄の首枷にかかり、彼は声を出すこともできず、窒息しそうになっていました。
そこで半三郎は執行人に合図しました。
2人の執行人は、このメキシコ人を槍で突き、苦しみを断ちました。
十字架の上でけいれんが起こり、開かれた
胸から2つの血の泉が噴き出しました。
ついに殉教の血が流されたのです。

最初の殉教者 フェリペ@

26人のうちで最初に槍を受けて殉教したのは、メキシコ人のフランシスコ会修道士フェリペでした。
彼のつけられていた十字架の支え木が下に寄りすぎていたので全身の重みが鉄の首枷にかかり、彼は声を出すこともできず、窒息しそうになっていました。
そこで半三郎は執行人に合図しました。
2人の執行人は、このメキシコ人を槍で突き、苦しみを断ちました。
十字架の上でけいれんが起こり、開かれた
胸から2つの血の泉が噴き出しました。
ついに殉教の血が流されたのです。

最初の殉教者 フェリペ@

26人のうちで最初に槍を受けて殉教したのは、メキシコ人のフランシスコ会修道士フェリペでした。
彼のつけられていた十字架の支え木が下に寄りすぎていたので全身の重みが鉄の首枷にかかり、彼は声を出すこともできず、窒息しそうになっていました。
そこで半三郎は執行人に合図しました。
2人の執行人は、このメキシコ人を槍で突き、苦しみを断ちました。
十字架の上でけいれんが起こり、開かれた
胸から2つの血の泉が噴き出しました。
ついに殉教の血が流されたのです。

両親をゆだねて アントニオF

たとえいま両親の心を引き裂いたとしても、彼にできる最高の親孝行は神に従うことであるということを。
彼が神に従ってこの殉教という報いを受け取るなら、主ご自身が必ず、両親に報い、永遠の命を与えてくださると信じていたのです。
彼は一時的な地上での和解よりも、永遠の天の報いを求めていたのです。

両親をゆだねて アントニオE

私たち夫婦が長崎に遣わされてきた時、まず初めにこの西坂を訪れ、祈りました。
そのときに、私はアントニオの話をしたのです。
妻の両親は当時まだイエスさまを信じてはいませんでした。
妻は一人娘でしたが、私と結婚することになって両親の元にではなく、主のしめされる宣教地である長崎に来ることになったのです。
妻は私の話を聞いて言いました。
「アントニオの気持ちが少しわかるような気がする」と。



2015年10月17日

両親をゆだねて アントニオD

アントニオは天に顔を向け、高らかに賛美していました。
アントニオ少年は信じていたのです。
神さまが必ず両親に報いてくださるということ。

2015年10月16日

両親をゆだねて アントニオC

「ハレルヤ」の大合唱が起こりました。
死刑執行の地獄となるはずの場所に天国が現されました。
そこには悲しみはありませんでした。
勝利者として天に凱旋していく少年たちの喜びが溢れていたのです。
そしてその喜びは、そこにいた人々のうちにも溢れていったのです。



2015年10月15日

両親をゆだねて アントニオB

そう言って隣にいたルドビゴ茨木とともに詩篇113篇を高らかに賛美したのです。
「子らよ。主をほめたたえまつれ」と。
銀の鈴のような声が西坂の丘に響き渡ります。
極悪犯罪人の死刑の場所が、今や天国から降りてきた主のご臨在の中に包まれていました。
見物に来ていた4000人とも言われている人は彼に合わせてともに賛美し始めました。

両親をゆだねて アントニオA

アントニオの両親は叫びました。
「親に先立つ不幸があるか。
お願いだから降りてきてちょうだい。
アントニオ、お願いだからキリストを捨てて降りてきてちょうだい。」
必死になって半ば狂乱しながら十字架にしがみついて叫びました。
しかしアントニオは両親に向かって言ったのです。
「お父さん。お母さん。喜んでください。
私はこれから天国に行くのです。
お父さん、お母さん、泣かないでください。
私は先に天国に行って、お父さん、お母さんのおいでになるのを待っています。
ですから、お父さんもお母さんもイエスさまを信じて、私のあとから天国に来てください。
喜んでください。喜んでください。」

両親をゆだねて アントニオ@

佐賀の山村村で神を選んだルドビゴ茨木とともに並んで十字架につけられ殉教したのが、アントニオという13歳の少年です。
彼の生まれ故郷は長崎でした。
彼は父が中国人でした。
両親はイエス・キリストをまだ信じてはいなかったのです。
それで政府の役人たちは処刑にするときに、アントニオの十字架の足もとに、両親が行くことを許したのです。
彼らは何とかしてキリシタンの信仰を捨てさせたかったのです。





二十六の十字架C

刑執行人たちは彼らを十字架につけ始めました。
手足と首を鉄枷で止め、腰を紐で結んで体を固定させ、ぴったりと十字架につけました。
そして掘ってあった穴のふちに十字架の根もとをあててじょじょにすべらせ、ついに十字架の穴に立てられたのです。
そして26本の十字架が西坂の丘に立てられました。
26人の殉教者たちと共に・・・・・。
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2015年10月13日

二十六の十字架B

「わたしのかかります十字架はどれですか」
役人は彼を見て、「おまえのかかる十字架は、あそこにある一番小さいあの十字架だ」と指さしました。
するとルドビゴ茨木はにっこりほほえんで駆け寄り、その十字架を抱きしめて頬ずりし、口づけしたのです。

二十六の十字架 A

午前9時半、26人の殉教者たちは西坂の丘につきました。
彼らは自分の十字架を示されるや、小躍りしつつ走り寄り、自分のつけられる十字架を抱きしめたのです。

その中には26人の中で最年少の少年ルドビゴ茨木もいました。
彼は佐賀の山本村で、半三郎の「養子になれ」との申し出を断り、神さまを選んでこの西坂の丘に来たのです。
ルドビゴは西坂の丘に着くと、そこにいた役人に聞きました。

二十六の十字架 @

西坂の丘には26の穴が掘られ、その一つ一つの前に真新しい26の十字架が1本ずつ置いてありました。
それらは注意深く削られ、入念に作られていました。
十字架の高さは、ほとんど2メートル以上もあり、両腕を止める長い横木と、それよりもやや短い足をおさえる横木がついていました。その一つ一つの十字架に5つの鉄枷がついていて、1つは首を、2つは手首を、残りの2つは足首を十字架に固定するようになっていました。またその中間に止め木があって殉教者が腰かけるようになっていました。

二十六の十字架 @


私はクリスチャンホームで育てられました。そしていま、3人の息子を持つ6児の父になろうとしています。ですからこの父子のやりとりを見ながら特別な感動を覚えます。最後まで救霊に燃え続けていた19歳のヨハネ五島、そして喜んでその息子を天に送り、自分も宣教に生き、殉教の備えをした父。たとえ、自分の愛する息子を失うとしても、2人の間の愛と、主への信頼、信仰は崩れなかったのです。私も彼らの主に対する心を受け継いでいきたい。息子としても、父としても、そう思わずにはいられないのです。
役人のかん高い声が響きました。出発の命令が下がったのです。
再び彼らは、西坂の丘を目指して歩き始めました。

父子の別れ ヨハネ五島B

私はクリスチャンホームで育てられました。そしていま、3人の息子を持つ6児の父になろうとしています。ですからこの父子のやりとりを見ながら特別な感動を覚えます。最後まで救霊に燃え続けていた19歳のヨハネ五島、そして喜んでその息子を天に送り、自分も宣教に生き、殉教の備えをした父。たとえ、自分の愛する息子を失うとしても、2人の間の愛と、主への信頼、信仰は崩れなかったのです。私も彼らの主に対する心を受け継いでいきたい。息子としても、父としても、そう思わずにはいられないのです。
役人のかん高い声が響きました。出発の命令が下がったのです。
再び彼らは、西坂の丘を目指して歩き始めました。

父子の別れ ヨハネ五島A

自分が殉教しようとしているときに、魂の救い、宣教のことを父に委ね、願ったヨハネ五島、そしてそれをしっかりと受け止めて応答する父、彼らはともに宣教のことを考えていました。
父はいま、殉教を前にして魂の救いのことを語る息子の信仰を見て、とても満足し喜んでいました。
いままで祈りと愛をもって育んできた息子の信仰は、神の与えてくださった殉教という試練の中で開花したのです。
こらはすばらしい祝福でした。

2015年10月11日

父子の別れ ヨハネ五島@

ちょうどそのとき、そこへヨハネ五島の父親が最後の別れを告げに来ていました。
彼は父に向かって言いました。
「お父上、魂の救いよりも大切なものは何もありませぬ、このことをよくお考えてくださいませ。
それについて決して油断せず、怠らぬようくれぐれもお頼み申しまする」
「せがれよ。そのとおり、決して怠りはしないから、おまえは元気いっぱい、力に満ちて死んでいきなさい。
おまえは、神様への忠節のために死ぬのだから、喜んでお前の死を見届けよう。
私もおまえの母上も必要とあれば主がお思召しになるときに、神の愛のためにキリストさまにこの命をささげる覚悟も用意もできています」

日本二十六聖人C

パウロ三木が告白し、その後、ディエゴ喜斎とヨハネ五島(ジュアン草庵とも言われる)が告白しました。
この2人の告白が終わるとパシオ神父は彼らを正式にイエズス会に入会させました。
このときディエゴ喜斎は65歳。
殉教者の中で最年長でした。
一方ヨハネ五島はキリシタンの両親の元に生まれた弱冠19歳の青年でした。

日本二十六聖人C

パウロ三木が告白し、その後、ディエゴ喜斎とヨハネ五島(ジュアン草庵とも言われる)が告白しました。
この2人の告白が終わるとパシオ神父は彼らを正式にイエズス会に入会させました。
このときディエゴ喜斎は65歳。
殉教者の中で最年長でした。
一方ヨハネ五島はキリシタンの両親の元に生まれた弱冠19歳の青年でした。