2020年01月19日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

この救護活動を見て心を動かされ、すぐにその案内と手伝い、患者の身の回りの世話を申し出たのが岩永マキでした。マキが動いたのを見ると、ほかにも守山マツ、片岡ワイ、深堀ワサという女性たちが共に立ちあがりました。彼女たちは皆、「旅」の中で迫害を受け、拷問にかけられて辛酸をなめてきた人たちでした。篤志看護婦になったこの4人の娘たちは、神父から看護法を教えてもらい、恐ろしい伝染病がはやっている町々村々を回り、大勢の人を助けました。
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2020年01月18日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

ド・ロ神父と篤志看護婦
う浦上村民の窮状を見た ド・ロ神父は、毎朝4キロ余りの道を、薬箱を提げて大浦から浦上に通い、病人の診察投薬に従事しながら、予防措置を教えて回りました。ド・ロ神父は、ただ脈をとり、薬を与えるだけでなく、患者の一人一人に神の言葉を語って慰め励ましたのです。
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2020年01月16日

四十三  浦上四番崩れ7=天災

浦上を襲う天災
米価は暴落し、食べ物にも困った浦上農民に、赤痢はますます広がりました.そして浦上だけでも210人の患者が出ました。しかし、この悪条件の中で、赤痢という恐ろしい疫病を210人の患者で食い止め、8人の死者にとどめたのは、ド・ロ神父と彼を助けた岩永マキら篤志看護婦の献身があったからです。
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2020年01月15日

四十三  浦上四番崩れ7=天災

浦上を襲う天災
あばら家に住みつつ、港に行って皿のかけらを拾い、それで荒れ果てた畑を耕しました。近くの村に日雇いに出て、イモやキュウリの苗をもらいながら働き始めました。こうして1年が過ぎ、やっと畑からもいくばくかの実りが収穫され、生活もようやく一息つき、落ち着いたと思ったところへ、疫病や天災が折り重なって、浦上を襲ったのです。
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2020年01月14日

四十三  浦上四番崩れ7=天災

浦上を襲う天災
キリシタンたちが、浦上に帰ってきた翌年の1874年夏、まず赤痢が流行します。そこへ追い打ちをかけるように8月21日、台風が来襲し長崎は大被害を受けます。前年建てたばかりの浦上のバラック長屋は、総倒れとなり、昔からあった家も含めて、全戸数の半分は倒壊しました。1年かけて辛苦の中で育てた農作物は、風に吹きちぎられ、収穫は皆無となりました。
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2020年01月13日

四十三  浦上四番崩れ7=天災

浦上を襲う天災
キリシタンたちが浦上に帰ってきたとき、浦上の地は荒れ果てていました。浦上4番崩れから帰ってきた人の中で、原子爆弾が落とされた後も生き残った老人が10人ばかりいましたが、、原子野に翌年雑草が一面に茂ったのを見て、流罪から帰った時に似ていると言いました。彼らには本当に何もなかったのです。
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2020年01月12日

四十三  浦上四番崩れ7ー天災

彼らの生活は極貧を極めました。けれども、彼らのうちにある喜びは、その 貧しさによっては、決して消すことの出来ないものでした。かれらは、毎日毎日大声で祈ったのです。主イエスに感謝しながらオラショをささげました。日曜日には、大浦天主堂に行って、ミサにあづかりました。8キロばかりあるのですが、彼らは少しも遠いとは思いませんでした。
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四十三  浦上四番崩れ7=天災

大声でオラショできる
このように軒の傾いたあばら家と狭いバラック長屋ではありましたが、彼らはとても喜んでいました。それは、主の恵みによって、キリストへの信仰を守り通して故郷に帰ってくることができた上に、「大声でオラショ(祈り)することができる」時世になったことが何よりもうれしかったからです。
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2020年01月11日

四十三  浦上四番崩れ7=天災

大声でオラショできる
流されていた3394人のうち1900人が、ついに浦上に帰って来たのです。しかし、そのうち736人には家がありませんでした。「旅」の間に壊されてしまっていたのです。残りの1164人には家はあったのですが家とは名ばかりの、壁も瓦も落ちたあばら家になっていました。もちろん畳や建具などは全くありませんでした。そこで、家なしの人のために竹の久保の官有林から切り出した木材で、一人当たり一坪の3,4件続きのバラック長屋を建てて、とにかく落ち着かせることになりました。
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2020年01月10日

四十三  浦上四番崩れ7=天災

1873年3月14日、ついに 彼らは流配地から浦上に帰って来たのです。彼らの信仰が、日本のかたくなな政府に勝利したのです。しかしその時には、613人はすでに流された地で殉教し、亡くなっていました。また6年余りにわたってなされた 残酷な拷問の中で1011人は 転んでしまったのです。この数字を見ても、彼らへの迫害がどんなに厳しく 残酷だったかがしのばれます。
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四十三  浦上四番崩れ7=天災  

キリストへの信仰を捨てない。 ただそれだけの理由で「一村総流罪(いっそんそうるざい)」となり、 西日本諸藩に流された浦上キリシタンたち。しかし、主は、彼らが示したキリストへの愛を忘れず、彼らの主イエス・キリストへの従順を通して、キリストに対して全く心が閉ざされていたこの国に 信仰の自由を与えてくださいました。
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2020年01月09日

四十二  浦上四番崩れ6−信仰の自由

ここに、1614年より始まったキリシタン禁制は 262年ぶりに効力を失い、日本にキリストを 信じる信仰の自由が 与えられたのです。3月14日、各地に流されていた 浦上のキリシタンたちは、釈放され帰村することになったのです。
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四十二  浦上四番崩れ6−信仰の自由

特に ベルギーのブルッセルでは 市民たちが大使の馬車に押し寄せて、浦上キリシタンの釈放を叫び、「流されている浦上キリシタンを牢から出せ」と言ってやめませんでした。さすがに、こんな異国の地で 浦上の名前を聞こうとは思っていなかったので、最初は日本の 内政問題であると突っぱねていた岩倉大使を中心とする使節団も、キリシタン邪教政策を 修正せざるを得なくなったのです。そして1873年2月24日、キリシタン禁制の高札は 撤去されたのです。 
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2020年01月07日

四十二  浦上四番崩れ6−信仰の自由

ちょうどそのような時、1871年12月23日に岩倉具視を全権大使とする一行が、アメリカからヨーロッパ各国へ、不平等条約改正のために行きました。欧米のどこの国でも、必ずキリシタン迫害の事柄が持ち出され、「キリシタンを迫害するとは野蛮国である」と厳しく詰め寄られ信仰の自由を条約に記すようにと、非常に強く迫られました。
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2020年01月06日

四十二  浦上四番崩れ6−信仰の自由

信仰の自由
各地に流された浦上のキリシタンたちは、津和野と同じように激しい迫害の中で、主にすがり、聖霊さまの助けを受けながら耐え忍んでいました。彼らの頭には、キリストを信じる信仰を、命をかけても守ろうという思いしかなかったことでしょう。しかし、そのことは彼らの知らないところで「信仰の自由」という世界的な問題となっていたのです。日本は、この迫害のゆえに諸外国から抗議を受けていました。流されたキリシタンたちに対する拷問は、外国使節団の耳に入り、諸外国の新聞や雑誌で報道され、批判され、どこの国でも沸き返るような世論となっていました。
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2019年12月31日

四十二  浦上四番崩れ5−信仰の自由

子どもの単純な信仰
ある日、3歳のこどもがひとりで裁判に呼び出されました。役人はおいしそうなお菓子を見せびらかし、「キリシタンをやめたらみんなこのお菓子をあげるよ」と言って誘惑しました。子供は頭を横に強く振りました。「どうして?このお菓子はとってもおいしいんだよ」と役人が言うと、こどもは「お母がね、キリシタンば捨てないとハライソ(天国)へ行ける、言うたもん。ハライソへ行けばね、そげんなお菓子よりも、もっともっと甘か物あると・・・」と答えました。ハライソへ行けるというのがただ一つの望みであり、最も大きな喜びだったのです。子どもの信仰は。このような単純なものでした。
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2019年12月30日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

空腹の中で
絶えず腹を減らされ、仕事もさせられず、大勢狭い部屋に詰め込まれて、二月も同じ説教を聞かされると、次第に望みも薄くなり、体も弱り、あたまもへんになって、ついにテング(悪魔)の誘惑に乗ってキリストへの信仰を捨てる気になってしまうので、彼らにとってはこれほど恐ろしい効き目のある責め苦はないのです。こういう責め苦に逢うと、男より女の方が強く、かえって女から男がはげまされいました。子どもは母の教えたとおりにします、こういう大きな迫害の中では、主婦がしっかりしていた家族だけが、最後まで信仰を守り通しました。
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2019年12月25日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

仙右衛門は体中がうずき、次に悪寒と戦慄(せんりつ)がきて、歯も抜けるかと思いましたが、2,3日たつと不思議なことに、もともとかかっていた熱病まで治っていたのです。
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四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

もはや息が切れようとする時に、役人が「早く上げろ」と言いつけましたそれで警護の役人が「早く上がれと」二人に言いましたが,「今、宝の山に登りておるからには、この池より上がられん」と甚三郎が答えたので、役人は5メートルばかりの竹の先に鉤(かぎ)を付け、鉤の先に髪の毛を巻き付け、力任せに引き寄せて、水の中より二人を引き上げました。
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2019年12月24日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

空腹の中で
さらに津和野には、先に流されてきた28人の家族の125人が、2月の初めに着きました。もうすでに役人たちは、説教だけでは転宗させることができないと分かっていたので、空腹の責め苦にかけました。
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四十一  浦上四番崩れ5ー津和野の拷問

すると氷は、みしみしと破れ、二人は氷の下を泳ぎ回りましたが、深くて背が届かず、やっとの思いで池の真ん中に浅いところを見つけて足先で立ち、破れた氷の上に頭を出して苦しい息をしました。そのとき、役人が「仙右衛門、甚三郎、天主が見ゆるか。さあ、どうじゃ」とあざけりました。そして、水を何度も組んで顔に投げ付け、いきができないようにしました。それよりだんだん体は冷え凍り、震えが来、歯はがちがち鳴り出しました。その時、仙右衛門は甚三郎に言いました。「甚三郎、覚悟はいいか。私は目が見えぬ。世界がくるくる回る。どうぞ私に気を付けてくだされ」
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2019年12月23日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

氷責め
冬のある日、仙右衛門と甚三郎は朝から呼び出されました。彼らはどんなに説教されても信仰を捨てません。それで氷責めにかけられました。その時津和野では、雪がひと月以上降り続き、60センチ以上も積もっていました。池にも厚い氷が張っていました。その池の縁に4斗おけ二つ並べ、柄長のひしゃくで2人の裁判の役人や警護の役人5、6人が彼らを引き出し「外国の宗教を信じる者は日本でできたものは身に着けてはならぬ」といって、ちょんまげの頭に巻いてある紙のこよりも切りのけ、着物もふんどしも取りのけ、真っ裸にして氷の張った池の上にふたりを突き落としました。
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2019年12月22日

四十一  浦上四番崩れ5−津和野の拷問

柴束2つをたき付けとして枯れ木を立てて燃やし、二人の体を6人で抱えてその火にあぶり、ぬくめ入れ、気つけを飲ませて正気付かせました。「その時の苦しさは何とも申されぬ」と甚三郎は手記に書いています。仙右衛門は体中
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四十  浦上四番崩れ4−一村総流罪

転宗した者は別の場所に移され、腹いっぱいになるまで食べ、仕事に出ることも許されました。そこへ、まだ転ばない者たちを3,4人ずつ連れてきて「お前もただお上の言いつけに従って西洋の宗教を捨てれば、今のこの地獄からあのような極楽に移れるのだ」と誘惑するのです。それでも転ばぬ者たちは三尺牢(さんじゃくろう)に入れられました。三尺牢は90センチ立方の箱で、前は6センチ角の柱を3センチおきに打った格好になっており、天井に食事などを入れる穴が一つあるばかり、ほかはすべて厚さ4センチの松板で固くできていました。体を曲げてやっと入っていられる狭さでした。
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2019年12月21日

四十  浦上四番崩れ4−一村総流罪

津和野での拷問
この旅の中で、特に迫害が激しかった津和野の事を、少しだけ書いておきます。仙右衛門や甚三郎は、津和野に流されました。初めは毎日お寺のお坊さんが来て説教をし転宗を迫りました。こうして半年が過ぎました。今度は神主の佐伯という人が説得にかかりましたが、信者は全く感心しません。そこで仕方なく、拷問を加えることに方針を変えました。畳をはぎ取り、食事には1日米3合、塩一つまみと水、むしろとちり紙1枚をあてがいました。着物は捕らわれた日に来ていた物があるだけでした。板敷きの上に、みんなで抱き合って寝ましたが、冬の津和野はあまりに寒くて眠れません。とうとう16人は耐え切れずに転宗を申し出ました。
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