2018年10月15日

三十  キリシタンの潜伏2−崩れ

そして1856年「浦上三番崩れ」がおこります。これも密告によるものでした。最高指導者の帳方吉蔵をはじめ、多くの指導的人物が投獄され、非道な拷問を受けます。この時の拷問はあまりに厳しく、この時に転んで仏教徒になった者も、かなりいるようです。
1860年に事件は決着しますが、吉蔵は牢死、この利八は所払いになり、初代孫右衛門から吉蔵まで7代続いた帳方は、その後置かれなくなり、1865年の信徒発見を迎えます。水方も4人のうち1人だけが生き残りました。
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2018年10月12日

三十  キリシタンの潜伏2−崩れ

「浦上二番崩れ」は、1839年に転びキリシタンの密告により勃発(ぼっぱつ)しました。この時は、浦上キリシタンの秘密組織の最高指導者である長方の利五郎をはじめ、村民の中心的指導者ばかりが捕らえられました。しかし、この時も結局は、全員釈放となります。
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2018年10月10日

三十  キリシタンの潜伏2−崩れ

「浦上一番崩れは」1790年に起こりました。最初に19人が捕らえられますが、いったん証拠不十分ということで、出牢放免になります。しかし2年後の92年に、再び9人の物が入牢させられます。紆余(うよ)曲折を経て95年に、この事件は落着し、全員放免されます。
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2018年10月09日

三十  キリシタンの潜伏2−崩れ

「試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、命の冠を受けるからです」
(ヤコブの手紙1章12節)
崩れ

 キリシタンの潜伏時代には、たびたびキリシタンの検挙事件が起こりました。幕府や奉行所は、隠れキリシタンの事を密告した者には「嘱託銀(しょくたくぎん)」という賞金を出していましたが、これがかなり高額だったようです。その結果、この嘱託銀の賞金欲しさに密告する、いわゆるユダによるものが多かったようです。このようにして、大量検挙されて潜伏組織が崩壊に瀕(ひん)してしまうことを「崩れ」と呼びます。「崩れ」は大村藩の郡崩れや豊後崩れ、そして美濃・尾張地方での濃尾崩れなど、各地で起こりました。




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2018年10月05日

二十九  キリシタンの潜伏1−浦上のキリシタン

浦上のキリシタン

 1567年ごろから長崎にキリスト教が伝えられ、浦上にも布教が始まりました。浦上の人は救われ、キリシタンとなっていきました。そして1584年、有馬晴信がイエズス会の知行地として浦上を寄進したことによって、浦上は名実ともにキリシタンの村となります。しかし1587年に秀吉が伴天連(バテレン)(宣教師)追放令を出し、翌1588年には、浦上は長崎とともに直轄領となります。
そして徳川へと時代は移り、1614年、徳川家康は禁教令を出し、すべての宣教師は追放されることになりました。そして250年にわたる禁教と弾圧、迫害と殉教,キリシタンの潜伏時代へと入るのです。
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2018年10月04日

二十九  キリシタンの潜伏1−浦上のキリシタン

潜伏して信仰を守り通したキリシタン

 しかしそのような中で、長崎の浦上には地下に潜伏したキリシタンたちがいたのです。 彼らは帳方(ちょうかた)・水方(みずかた)・聞役(ききやく)という地下組織をを作って、なんと250年間、信仰を継承し守り通したのです。彼らは、この国、日本で再びキリストを信じる信仰を公にすることができるようになる日まで、7代にわたって信仰を継承し命をかけて守ったのです。  しかし、その信仰の自由を勝ち取るためには、彼らは再び激しい迫害と殉教の死を通らなければなりませんでした。    これからしばらくの間、この浦上のキリシタンたちに目を留めて書いていきたいと思います。
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2018年10月03日

二十九  キリシタンの潜伏1−浦上のキリシタン

二十六聖人以後のキリシタン

 幕府は 奉行にあらゆる方法で キリシタンを見つけださせ、彼らを殺すのではなく、転ばせて信仰を捨てさせるために 拷問を加えたのです。しかし、それでもどうしても 転ばないものに関しては、その上にとても残酷な方法で 殺していきました。  このような中で、日本に命がけで来ていた宣教師たちも、ついには捕らえられて、ある者は追放され、ある者は殺されていきました。そして、もはやキリシタンはいないと思われるまで徹底した弾圧が なされていったのです。
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2018年10月02日

二十九  キリシタンの潜伏1−浦上のキリシタン

「まことに、まことに、あなた方に告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(ヨハネの福音書12章24節)

二十六聖人以後のキリシタン

1597年2月5日、長崎の西坂の丘で二十六聖人が殉教した後、多くの人々がキリストの名のゆえに捕らえられ、殉教していきました。 二十六聖人が殉教した翌1958年に、彼らに死を宣告した秀吉が死にます。そして時代は徳川の江戸幕府へと移り、日本は鎖国することになるのです。その結果、キリスト教は、やがて全面的に禁止され、非常に激しい迫害と 弾圧が始ってきます...
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2018年10月01日

二十八  十字架を負って4−応えは必ずやってくる

リバイバル

 西坂の丘に立つと、今も喜びが注がれてきます。天の御国から注がれてくる喜びが。 その丘に立って祈るたびに、主は私に語ってこられます。「彼らが示した愛と従順、彼らが負った十字架、彼らの祈りと願い それらは、決して忘れられていない。その応えが、この時代に必ずやって来る、」と そしてさらに主は、わたしに迫ってこられるのです。「真にへりくだって、自分を捨てて、自分の十字架を負って、私についてくる者たちに、彼らのバトンは受け継がれ、その者たちを通して、応えは必ずやって来る、リバイバルは必ず、まもなくやって来る」と。  ここまで、日本26聖人について書いて来ましたが、この章で終わります。次の章からは、その後の殉教者について、特に、浦上四番崩れの事を中心にかいていきます。  
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2018年09月30日

二十八  十字架を負って4−応えは必ずやってくる

リバイバル

 時の権力者、太閤秀吉、彼は長崎にいる 多くのキリシタンたちの信仰を捨てさせるために、彼らへの見せしめとして26人を 長崎まで連れてきて 処刑したのです。けれども結果は、秀吉の思惑とは、全く逆になったのです。 二十六聖人たちは、信じていました。必ず主は、この殉教の死は、決して無駄になることなく、一粒の麦として、のちの日に、豊かな実を結ぶのだと。
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2018年09月29日

二十八  十字架を負って4−応えは必ずやってくる

リバイバル

 当時の人たちは、死を頻繁に見ていました。 しかし、こんなに喜びと希望に満ちた死を見たことがありませんでした。いつも呪(のろ)いと恨みと後悔の中で、人は死んでいったのです。ですから、当時の人たちにとって、この26人の殉教者たちの死は、驚きと感動と羨望(せんぼう)であったのです。 二十六聖人の殉教を見ていた見物人たちの中のクリスチャンはもとより、信仰のはっきりしていなかった人々やキリストを信じていなかった人までもが、改心し、代官所に詰め掛けて、自分もクリスチャンだから殺してくれと言って、人々が殺到してきたと言われています。そしてこの後、彼らは殉教していきました。

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2018年09月28日

二十八  十字架を負って4−応えは必ずやって来る

リバイバル

 日本26聖人。彼らは自分の十字架をしっかりと受け取り、喜んで西坂の丘で殉教していきました。彼らは、最後まで福音宣教に生き、西坂の丘で十字架につけられて殉教したのです。 西坂の丘に集まっていた4000人ともいわれている見物人たちは、この26人の殉教の姿に感動し、長崎に小さなリバイバルが起こります。
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2018年09月27日

二十八  十字架を負ってー応えは必ずやってくる

十字架を負って

また、彼らにとっては京都で捕らえられてから、西坂の丘で殉教するまでの およそひと月の長崎への道のりは、、十字架を負うことの恵みを、さらに深く知る恵みの時となった事でしょう。 その道のりの中で、彼らは、今までなかったほどキリストに近づき、さらに十字架の深みへと導かれ、そして喜んで殉教していったのです。彼らに許された殉教という十字架を負うために、主は、ひと月の備えの時を、彼らに与えられたのです。キリストのそばに置かれた12弟子たちが、キリストと聖霊によってつくり変えられていったように、26人の殉教者たちも、この殉教への道の中で、神に近づけられ、変えられていったのでしょう。  長崎への道の途中で、殉教者に加えられたペトロ助四郎やフランシスコ吉、それに日本に来てわずか数カ月で捕らえられ、殉教者の中に入れられたフェリペを見ていると、そんなふうに、私には見えてくるのです。
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2018年09月26日

二十八  十字架を負って4−応えは必ずやって来る

「人もし我に従(したが)はんと欲(ほっ)せば、己(おのれ)を捨て、十字架をとりて我(われ)に従(したご)ふべし」(マルコ伝8章34節)
十字架を負って

 喜んで殉教していった26人の殉教者たち。 彼らにとって、この殉教は、確かに十字架でした。しかし彼らは、この十字架を喜んで選び、負っていきました。 なぜ、彼らには、それができたのでしょうか。おそらくそれは、彼らが、これまでの毎日の生活の中で、すでに日々、十字架を負って、生きていたからなのではないでしょうか。だからこそ、例え話マチヤスのように、自ら進んで同じ洗礼名をもつ別人に代わって、捕らえられることができたのでしょう。
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2018年09月25日

二十七  十字架を負って3−福音宣教

福音宣教

 たとえその結果、命を失うとしても、彼らは福音を語ることを止めませんでした。救われていない人々がいる限り、彼らは、福音を語り、宣べ伝えることを、止めることなどは考えられなかったでしょう。異邦人伝道に召されていたパウロが「私の同胞のためには、呪われた者となることさえ願いたい」と言った同じスピリットを、彼らも持っていたのです。
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2018年09月24日

二十七  十字架を負って3−福音宣教

福音宣教

 福音宣教。イエス・キリストの福音を宣べ伝える。 これこそが、彼らの召しだったのです。彼らは、この召し、福音宣教の中に生きていました。そして、この福音宣教という召しに忠実に生きたときに、殉教という十字架が、彼らの前に置かれたのです。 彼らは、今まで、口を聞きませんでした。どんなに妬みから、ありもしない悪口雑言を言われても、彼らは黙して語りませんでした。しかし、イエス・キリストの福音に関する限り、イエス・キリストの証人として、彼らは口を閉ざすことは、できなかったのです。
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2018年09月23日

二十七  十字架を負って3−福音宣教

 京都で捕らえれられから、十字架の上で、最後にやりを受けるまで、キリストの福音を宣べ伝え続け、十字架の説教を止めなかったパウロ三木。
彼は最後の最後まで魂を追い求めていました。19歳のヨハネ五島が、最後に父と語ったことは、魂の救いでした。15歳の少年トマス小崎は、父と共に殉教するために引かれながら、2人の弟の救いのために、母マルタに、三原城から手紙を書きました。十字架にすがりついて「降りてきて」と叫ぶ両親に「喜んでください」と天国を語った13歳の少年アントニオ。  彼も両親が救われて天国へ来ることを、心から願って信じていました。彼らの切なる願いは、人々がキリストを信じて救われ、神のもとに帰ってくることだったのです。彼らは、人々の魂を、最後の最後まで求め続けていました。
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2018年09月22日

二十七  十字架を負って3−福音宣教

己(おのれ)を捨てて、喜んで殉教していった26人。彼らは、すでに、もう自分に死んでいました。 しかし、そんな彼らにも、ただ一つの気掛かりががありました。それは、この地上に残されるまだ救われていない魂のことでした。天に帰ることを心から喜びながら、まだ救われていない日本の人々の魂を考えると、彼らの心は、激しく痛んだのです。イエス・キリストを真に信じる者への迫害が始まった、この国の将来を思うと、彼らの心に憂いがやってきました。 それは死に対する恐れや恐怖でも、この地上に対する執着や、家族と離れてしまうことへの悲しみでもありませんでした。 彼らは、この日本に、まだキリストを知らない者がいることに、耐えられなかったのです。そして、もう彼らに福音を伝えることができなくなると思うと、彼杵(そのぎ)で涙を流したペテロ・バプチスタ神父のように、泣かずにはいられなかったのです。
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2018年09月21日

二十六  十字架を負って2−己を捨て

己を捨てて

 私たちが喜んで十字架を負えないのは、きっとまだ己を捨てて、自分に死んでいないからなのでしょう。己を捨ててしまうなら、御国の喜びが、十字架を負っているそのところに、今すぐにでも、やってくるのです。     彼らは己を捨てて、喜んでいました。 ただ一つのことだけを除いては・・・。
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2018年09月20日

二十六  十字架を負って2−己を捨てて

己を捨てて

 京都で捕縛され、殉教者に選ばれてしまった時から、彼らの心は、ますますこの地上に対する執着や思い煩いから解き放たれて、天につなぎ合わされていったことでしょう。長崎で殉教するまでのひと月の殉教への歩みの中で、彼らの肉体はとても弱くされ、痛みや苦しみが襲ってくることも、しばしばあったかもしれませんが、彼らの心は、天の御国の喜びに、ますます満たされて、キリストと福音とのために殉教しなければならなくなったことを、本当に喜んでいたことでしょう。ちょうど、キリストのみ名のために、辱められるに価するものとされたことを喜んだ使徒たちのように。
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2018年09月19日

二十六  十字架を負って2−己を捨てて

己を捨てて

 なぜ彼らは殉教という十字架を前にしても、こんなに喜んでいることができたのでしょう。それは彼らが、もうすでに「己を捨て」自分に死んでいたからなのです。 かれらはもはや、自分の命には、生きていなかったのです。主が、ご自身の命の代価を払ってあたえてくださった永遠の命の中に、彼らは生きていたのです。だから、彼らは、心から喜んでいたのです。
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2018年09月18日

二十六  十字架を負って2−己を捨て

天の喜び

 主はその時、語られたのです。「彼らは喜んでいた」と。 確かに、彼らは喜んでいました。 役人の「養子になれ」との誘いを断って、自分の十字架に走り、口ずけした12歳の少年ルドビゴ茨木。 十字架の足元にすがりついて「降りてきて」と絶叫する母に向かって「喜んでくださいと言った13歳の少年アントニオ。 メキシコに行き、司祭に叙階(じょかい)されるはずだったのに、日本で殉教することになった時、「サン・フェリペ号が難船したのは、この私が殉教の恵みにあずかるために許されたのです」と言ったフェリペ。 彼らはみんな、心から喜んでいました。
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2018年09月17日

二十六  十字架を負って2−己を捨て

天の喜び

 初めて西坂の丘の来て祈った時、私は驚きました。なぜなら、坂を上がって西坂の丘にたどり着くと、そこには「喜び」があったからです。天から注がれてくるような、さわやかな明るい喜びが、確かにそこにはあったのです。それは、私の中にそれまであった、暗い悲惨な殉教というイメージとは、あまりにもかけ離れていました。 そこには、とても深い主のご臨在があったのです。その日は小雨が降っていましたが、私が、西坂の丘に立ち、心を主に向けて祈ると、喜びが内側からあふれてくるのです。
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2018年09月16日

二十五  十字架を負って1−人若し我に従わんと欲せば

すぐ従う心をもって

 二十六聖人たちは、キリストのように受け取ったのです。しかも喜んで、それが彼らにできたのは、彼らが特別な「聖人だった」からなのでしょうか。私は、そうではないと思います。二十六聖人が特別な聖人だったからできたとは、私には思えないのです。 私は彼らを慕っています。その信仰にならいたいと願っています。とても彼らを尊敬しているのです。 しかし、やはり二十六聖人たちも、私たちと同じように、弱さを持った罪びとだったのです。ただ、彼らは、主に従いたいと、心から願っていました。彼らは、本当に主を愛していました。その主への愛と、従いたいという強い強い願いが、聖霊の助けの中で、彼らを殉教にまで導いていったのでしょう。  キリストに選ばれた弟子たちは、ガリラヤの無学な普通の人でした。 けれども彼らは、主に呼ばれ、招かれた時に、すぐに従いました。 同じように二十六聖人たちも、主に、すぐに従う心を持っていたのです。
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2018年09月15日

二十五  十字架を負って1−人若し我に従はんと欲せば

 これは、彼らにとっては、まさに十字架でした。しかし彼らは、その殉教という十字架を、喜んで受け取り、黙って縄を受けたのです。 それはちょうど、キリストが、パリサイ人や律法学者たちの妬みによって、十字架につけられたのと、そっくりでした。また、キリストが捕らえられた時、祭司長たちと全議会による誹謗と偽証による不当な不法な裁判においても、大祭司の前で黙っておられたように、彼らも妬みと誹謗と中傷によって、十字架につけられることになった事を、黙って引き受けたのです。   私たちの日々の信仰生活においても、同じようなことが許されることがあります。もちろん今の日本では、殉教ということはないでしょうが、妬まれたり、ありもしないことを言われたりというのは、日常茶飯事です。 そのような時に、私たちは黙ってその十字架を受け取っているでしょうか。つぶやいてしまったり、恐れてしまったり、怒ってしまったりして、その十字架を投げ捨ててしまっていないでしょうか。その十字架から、逃げてしまっていないでしょうか。
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