2020年02月03日

あとがき

罪の代価はすべて すべて支払われました。私たちは、ただ自分の罪を悔い改めてイエス・キリストの十字架を信じるだけで、その時 全く新しく生まれ変わる ことができるのです。そのことを、かっての浦上の人たちは知っていました。しかし今、かっての浦上の人たちが命をかけて守り続けたもの。「キリストへの信仰」。それはどこにあるのでしょうか。時代は終末の様相を示してきています。今こそ私たちは 目を覚まして、キリストへの信仰を取り戻し、キリストとともに神さまの用意された本当の祝福の道を 歩むべき時 なのです。
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2020年02月02日

あとがき

なぜ彼らは何代にもわたって命をかけてまで、イエス・キリストへの信仰を、守り通したのでしょうか。それはイエス・キリストが命をかけて、私たちを愛して下さったからです。教会に行くと必ずあるもの、それは十字架です。この十字架でイエス・キリストはご自分の命を捨ててまで、私たちへの愛を示されたのです。イエス・キリストは何一つ罪を犯されませんでした。しかし私たちが自分で、どうすることできない罪と、弱さと、その結果もたらされるすべての呪い(のろ)いと病気を、イエス・キリストはご自分の身に負って、私たちの身代わりなって 十字架で死んでくださったのです。そして十字架で死ぬ直前に、こう言われました「完了した」と。
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2020年02月01日

あとがき

「ウラカミ・ウラカミ」 そう叫ぶ人々の声が、ベルギーのブルッセルで こだましました。今から130年ほど昔のことです。そして、この叫びが250年間禁止されていた キリスト教を、この日本の国で自由にしたのです。「ウラカミ」。彼らが叫んだのは、まぎれもなくこの本に書いた 浦上のことです。この浦上には命をかけてキリストを信じた人々がいました。江戸時代の迫害下にあっても 隠れキリシタンとして 信仰を守り続け、信仰が自由になる日を 信じて守り続けた人々が、この浦上にはいたのです。
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2020年01月29日

四十五  浦上四番崩れ9−悲しみを喜び

この高谷家は、もともと浦上の庄屋で、キリシタンの召し捕りや 吟味のあるごとに 自ら手伝い、毎年正月には浦上の人々を召し出して
絵踏みを実行していた家です。しかし、キリシタン流配の処分を出したのち、当主は死亡し、長男は懲戒のために高島炭鉱に送られている時、ガス爆発により死亡しています。その結果、未亡人はわずか12歳の病児を抱えて 生計を立てるのに困り ついに敷地 建物邸宅に至るまでの広大な土地と建物を残らず競売に出して、村を立ち退くことになったのです。浦上の信者は、何とかしてこの敷地を手に入れようとして祈り、そしてついに、わずか1600円で買い取ったのです。(当時は米10キロ44銭)。
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四十五  浦上四番崩れ9−悲しみを喜びに

悲しみを喜びに
そこで浦上に 仮聖堂を建てる計画を作り、まずは、適当な場所をさがしました。そこで、瓦ぶき平屋で、200にんぐらい収容できる離れ座敷を 仮聖堂にあてました。しばらくは、ここに大浦から ポアリエ神父が通っていましたが、聖務が忙しくなると、ここに住み込んで奉仕されました。そして1880年高谷庄屋屋敷を買い取って補修し、仮聖堂としました。
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四十五  浦上四番崩れ9−悲しみを喜びに  

悲しみを喜びに
浦上のキリシタンたちの歴史を見てきましたが、そこには、しゅをs

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2020年01月28日

四十五  浦上四番崩れ9−悲しみを喜びに  

悲しみを喜びに
「旅」から帰ってきた浦上のキリシタンたちには、切なる願いがありました。それは神の家、つまり聖堂を建てることでした。彼らは、ミサのために毎日曜日ごとに、大浦天主堂まで歩いて通わねばならなかったのです。彼らは、それでもうれしくてたまりませんでした。けれども、その日の糧を得るにも、きゅうきゅうとしていた信者たちにとって、それは時間的にも大きな困難でした。
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2020年01月27日

四十五  浦上四番崩れ9−悲しみを喜びに

試練を用いる主
私たちの人生の中にも、いろいろな試練が許されます。しかし試練が私たちを主から離すのではないということを、浦上のキリシタンの歴史を見るときに思わされます。むしろ試練は、私たちの信仰を練り清めて、私たちに主が用意されている道へと私たちを導いてくれるのです。主は愛の方、そして最善以外、私たちに決してなさらないお方だからです。
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2020年01月26日

四十五  浦上四番崩れ9−悲しみを喜びに

試練を用いる神
愛である方、主イエスへの彼女たちの持っていた信頼、この信仰が祈りとともに働いて、多くの痛んでいた小さな者たち(孤児や捨て子)を助ける主の救いの手として働く道へとみちびかれていくのです。
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2020年01月25日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

マキやマツたちは、孤児を養うことが天職と考えました。ド・ロ神父もこの事を聞くと、心の底から大喜びをして、フランスでの孤児院のやり方にまねて、具体的にいろいろと教え、経済的な助けもしました。マキたちの共同生活は、初めからただの休憩所ではありませんでしたが、こうしてやがて「十字会」と名付けられて準修道会となります。
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2020年01月24日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

孤児のための働き
守山マツは津和野に流されていた時、殉教していった弟の裕次郎が臨終する時に言い残していった言葉を忘れたことはありませんでした。裕次郎は姉のマツに手当をしてもらいながら、兄の勘三郎の手を握かえって、最後にこう言って天に帰っていったのです。「おら、もうじき天主様から召される如(ごと)ある。兄と姉は生き永らえて浦上に帰れる如(ごと)思われるばい。その時にはキリシタン法度の高札は取られ、大声で祈りができるに違いなか。浦上に帰れたら、1人は結婚して、その子の一人ば神父さまにしてくれるやろ。やっぱり教理をよう知っとらんと、信仰も弱かけん。子どもば泣かせなさんな。子どもばかわいがってくれよ・・・」「子どもを泣かすな」と言った弟の言葉を思い起こしながら、マツやマキやほかの娘たちと相談して、孤児を育てることにしました。
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2020年01月23日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

天然痘の看護も収まって、浦上に戻ってきたマキの腕の中に、一人の赤ん坊が抱かれていました。名はタケといいます。天然痘で両親が死ん
だ孤児でした。それまで蔭の尾島にあった「孤児院が」閉鎖されたので連れて来たのです。孤児はタケだけではありませんでした。当時、日本では各地で捨て子がたくさんいました。長崎でも相次ぐ災難で、孤児や捨て子は、つぎつぎに出ていました。
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2020年01月22日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

孤児のための働き
赤痢が下火になったころ、台風が襲い、大暴風が浦上のバラックを吹き飛ばしていきました。それが片付いたと思ったら、今度は港の入り口の島々(蔭の尾島)に天然痘がはやりました。病気を恐れて、家族の者でさえ患者を見捨てて逃げるほどでした。村にも町にも、親を疫病で奪われた孤児たちの姿がちらほら見えましました。
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2020年01月21日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院  

夜遅く 合宿しているこの部屋に 帰って来ても、そこには、ござと板の上に敷いた布団が 一枚あるばかりでした。食器は茶碗がたった一つ、何か飲めるものを作って、その茶碗で娘たちは回し飲みしました。そして、心を合わせて一心に祈ったのです。神父は娘たちに医学を教えただけではなく、祈りを教え、聖書の御言葉を教えることにも力を入れました。こうして、次第に修道生活に近づいて行きました。
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2020年01月20日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

ド・ロ神父は毎夜、大浦天主堂に戻りました。マキたちは家に帰ると家族に伝染させる心配があったので、どこかに合宿することにしました。その時高木仙右衛門が、自分の小屋を提供しました。そこで4人は共同生活を始めました。
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2020年01月19日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

この救護活動を見て心を動かされ、すぐにその案内と手伝い、患者の身の回りの世話を申し出たのが岩永マキでした。マキが動いたのを見ると、ほかにも守山マツ、片岡ワイ、深堀ワサという女性たちが共に立ちあがりました。彼女たちは皆、「旅」の中で迫害を受け、拷問にかけられて辛酸をなめてきた人たちでした。篤志看護婦になったこの4人の娘たちは、神父から看護法を教えてもらい、恐ろしい伝染病がはやっている町々村々を回り、大勢の人を助けました。
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2020年01月18日

四十四  浦上四番崩れ8−孤児院

ド・ロ神父と篤志看護婦
う浦上村民の窮状を見た ド・ロ神父は、毎朝4キロ余りの道を、薬箱を提げて大浦から浦上に通い、病人の診察投薬に従事しながら、予防措置を教えて回りました。ド・ロ神父は、ただ脈をとり、薬を与えるだけでなく、患者の一人一人に神の言葉を語って慰め励ましたのです。
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2020年01月16日

四十三  浦上四番崩れ7=天災

浦上を襲う天災
米価は暴落し、食べ物にも困った浦上農民に、赤痢はますます広がりました.そして浦上だけでも210人の患者が出ました。しかし、この悪条件の中で、赤痢という恐ろしい疫病を210人の患者で食い止め、8人の死者にとどめたのは、ド・ロ神父と彼を助けた岩永マキら篤志看護婦の献身があったからです。
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2020年01月15日

四十三  浦上四番崩れ7=天災

浦上を襲う天災
あばら家に住みつつ、港に行って皿のかけらを拾い、それで荒れ果てた畑を耕しました。近くの村に日雇いに出て、イモやキュウリの苗をもらいながら働き始めました。こうして1年が過ぎ、やっと畑からもいくばくかの実りが収穫され、生活もようやく一息つき、落ち着いたと思ったところへ、疫病や天災が折り重なって、浦上を襲ったのです。
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2020年01月14日

四十三  浦上四番崩れ7=天災

浦上を襲う天災
キリシタンたちが、浦上に帰ってきた翌年の1874年夏、まず赤痢が流行します。そこへ追い打ちをかけるように8月21日、台風が来襲し長崎は大被害を受けます。前年建てたばかりの浦上のバラック長屋は、総倒れとなり、昔からあった家も含めて、全戸数の半分は倒壊しました。1年かけて辛苦の中で育てた農作物は、風に吹きちぎられ、収穫は皆無となりました。
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2020年01月13日

四十三  浦上四番崩れ7=天災

浦上を襲う天災
キリシタンたちが浦上に帰ってきたとき、浦上の地は荒れ果てていました。浦上4番崩れから帰ってきた人の中で、原子爆弾が落とされた後も生き残った老人が10人ばかりいましたが、、原子野に翌年雑草が一面に茂ったのを見て、流罪から帰った時に似ていると言いました。彼らには本当に何もなかったのです。
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2020年01月12日

四十三  浦上四番崩れ7ー天災

彼らの生活は極貧を極めました。けれども、彼らのうちにある喜びは、その 貧しさによっては、決して消すことの出来ないものでした。かれらは、毎日毎日大声で祈ったのです。主イエスに感謝しながらオラショをささげました。日曜日には、大浦天主堂に行って、ミサにあづかりました。8キロばかりあるのですが、彼らは少しも遠いとは思いませんでした。
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四十三  浦上四番崩れ7=天災

大声でオラショできる
このように軒の傾いたあばら家と狭いバラック長屋ではありましたが、彼らはとても喜んでいました。それは、主の恵みによって、キリストへの信仰を守り通して故郷に帰ってくることができた上に、「大声でオラショ(祈り)することができる」時世になったことが何よりもうれしかったからです。
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2020年01月11日

四十三  浦上四番崩れ7=天災

大声でオラショできる
流されていた3394人のうち1900人が、ついに浦上に帰って来たのです。しかし、そのうち736人には家がありませんでした。「旅」の間に壊されてしまっていたのです。残りの1164人には家はあったのですが家とは名ばかりの、壁も瓦も落ちたあばら家になっていました。もちろん畳や建具などは全くありませんでした。そこで、家なしの人のために竹の久保の官有林から切り出した木材で、一人当たり一坪の3,4件続きのバラック長屋を建てて、とにかく落ち着かせることになりました。
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2020年01月10日

四十三  浦上四番崩れ7=天災

1873年3月14日、ついに 彼らは流配地から浦上に帰って来たのです。彼らの信仰が、日本のかたくなな政府に勝利したのです。しかしその時には、613人はすでに流された地で殉教し、亡くなっていました。また6年余りにわたってなされた 残酷な拷問の中で1011人は 転んでしまったのです。この数字を見ても、彼らへの迫害がどんなに厳しく 残酷だったかがしのばれます。
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