2019年11月19日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

過酷な拷問
それをみて、今ひどい目に遭った6人もすっかり気を落としてしまい、つめ印を押してしまいました。役人は「あれを見たか、あのような体になってから改心するよりも、今体の痛まぬうちに回心したらどうだ」と、これから拷問を受けようとしている5人の者や、まだ転び証文につめ印を押していない者たちに言いました。それで、これから拷問を受けようとしていた5人もすっかり気を落としてしまい、残っていた人たちも、みんな爪印を押してしまったのです。ただひとり、高木仙右衛門だけを残して。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月18日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

過酷な拷問
水をかけると縄は、短く縮み、肉に入り、皮膚は紫色に変わります。そして、また気絶してしまいます。こうして6人は門口に引き出され、捨て物のように転がされました。続いて次の5人も同じ目に遭わせようとしました。この拷問の有様を見せられていた人たち何人かは、「これから毎日こんなめに遭わせられるなら、とても信仰を守り通すことはできない」と、転び証文の自分の名前の下に、つめ印を押してしまったのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月17日

浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

過酷な拷問
駿河(するが)問いという責め苦(「ドドイ」)とも呼ばれる)を受けるため、6人が選ばれました。これは両足を背中に反らせて、両足手首、それに首、胸にも縄をかけて、それを背中の1ヶ所にくくり寄せ、その縄を梁に巻き上げ、体を弓のように反らせて、つるすのです。コマのように勢いをつけて、振り回し、次によりを戻して逆に回転させます。そして下に立った役人が棒とむちで散々に打ちたたきます。するとほとんど気絶してしまいます。それから地面に引き下ろして水をかけ、正気に戻して繰り返すのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月16日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛  

また、彼らが捕らえられた後にも、浦上では、死人が出た時坊さんを呼ばない人たちが、次々に桜町牢に入れられていました。10月5日、68人は再び小島牢から桜町牢に移されましたがその時には彼らは83名となり2坪ちょっとの4畳半の牢に38人が詰め込まれる有様でした。それでも彼らは、責められても、苦しめられても、信仰を、この時までは守っていたのです。けれども桜町牢での拷問は凄惨(せいさん)を極め、その結果、ついに高木仙右エ門ただ一人を残して、82人が転んでしまうのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月15日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

長崎奉行は、浦上農民たちが囚人たちを奪い返しに来るかもしれないと思い、2日後には小島に新牢を造り、そこに移しました。そこから仙右衛門、与五郎、寅五郎、又市などは、取り調べのために、たびたび西役所に引き出されました。一方、キリシタンであるという信仰の問題だけで捕縛投獄されたことに在留異国人は衝撃を覚え、各国の領事は奉行に抗議しました。さらに問題は幕府と各国外交団にうつされ、毎日のように議論されました。しかしキリシタン邪教観は強く、なかなか解決しませんでした。そうしている間にも「入牢者には拷問を加えない」という外交団との約束は破られ、長崎では捕らえられた68人に説得やひどい拷問が加えられていました。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月14日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

捕縛
1867年7月15日の早朝3時頃、大雨をついて捕手たちは浦上の地に踏み込み、68人が捕らえられました。これが「浦上四番崩れ」の始まりです。彼らは桜町牢(ろう)に入れられました。この桜町牢は、もともと教会のあったところですが、1614年の迫害の時に壊され、その後に牢獄が造られて迫害時代に多くの神父や信者たちが、苦しみをしのぎ、殉教へ旅立っていったところです。

posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月13日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

代わった明治新政府は、神道を中心に天皇政治を目指したため、キリシタンに対しては迫害の手を緩めるどころか、ますます激しくなりました。そのため、キリシタンへの迫害と弾圧は、外交上の問題となりました。明治6年、すなわち1873年になって、やっとこの問題は解決し、キリストを信じることが認められたのです。しかしそのためには「浦上四番崩れ」といわれるている、明治政府によるキリシタン弾圧の中での激しい迫害と殉教を、通過しなければならなかったのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月12日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

「ワタシノムネ アナタノムネトオナジ」この言葉をもって復活したキリシタンたちは、うれしくてうれしくてたまりません。それまで隠れ続け、待ち続けたきた キリシタンたちは、毎日のように天主堂に通い、熱心に祈り、御言葉を学びました。けれどもまだ、日本はキリスト教を禁止していました。その結果、浦上のキリシタンたちは、ついに捕らえられ、牢に入れられてしまいます。まず最初に、指導者の68人が捕まりました。そして、この問題を解決できぬまま、江戸幕府は倒れてしまうのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月11日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

捕縛
1867年7月15日の早朝3時頃、大雨をついて捕手たちは浦上の地に踏み込み、68人が捕らえられました。これが「浦上四番崩れ」の始まりです。彼らは桜町牢(ろう)に入れられました。この桜町牢は、もともと教会のあったところですが、1614年の迫害の時に壊され、

posted by 日本教会史 at 15:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

これから「浦上四番崩れ」について書いていきたいと思いますが、その前に今までに書いてきたことを、簡単にまとめておきます。激しい迫害の中で潜伏した キリシタンたちは、バスチャンの残した予告預言を信じて7代250年の間、罪に告解を聞いてくれる神父が来るのを待ち続けていました。そして、預言通りに、7代250年たった時に、神父がついにやって来たのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月10日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

その結果、この問題は江戸幕府と上記各国等による外交団との間に移され、外交団は毎日のように、この問題をもって幕府に迫りました。しかし徳川250年の間に培われた キリシタン邪教観は根深く、なかなか解決はしなかったのです。そして、キリシタン事件を解決できないまま、幕府は瓦解してしまうのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月09日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

領事たちは「日本が宗教を許さないということは、野蛮国であるという証拠であり、この度の事件が本国へ報告されたならば、日本の立場は非常に悪くなるでしょう」と注意しました。しかし奉行は「これは純粋な内政問題なので 外国の指図を受けるものではない。ことに200年来も守られてきたキリシタン禁教命令の法令を止めることは幕府だけがすることで、地方の問題ではないから、どうか江戸幕府へ談判して欲しいです」と答えました。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

その日(7月15日)の午前11時プロシア領事が、翌16日には フランス領事レックスが、その翌17日は、ポルトガル領事ロイレロが奉行所を訪ね、抗議しました。その数日後に来埼したアメリカ公使ワルケンブルグも奉行所に抗議し、牢内にいる信徒たちを見舞いました。大国アメリカの全権公使が、農民信徒たちを懇切に慰問したことは、長崎奉行所をずいぶん驚かせたようです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月08日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

浦上四番崩れ
1867年7月15日の早朝3時ごろ、大雨をついて安藤弥之助の指揮する捕手たちが、数隊に分かれて浦上の秘密聖堂や主だった信者の家を襲い、踏み込みました。秘密聖堂は散々荒らされ68人が捕らえられて桜町牢に入れられました。これが「浦上四番崩れ」と言われている大迫害の発端です。
こうして浦上で、再び迫害が始まったのです。キリシタンであるという信仰の理由だけで、このような捕縛投獄が行われたことは、居留外国人たちに、大きな衝動を与えました。そしてこの事件は、その日のうちに外交問題となりました。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月07日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

庄屋があわてたのも無理はありません。「それでは聖徳寺との縁を切りたいものの名簿を出せ」といったところ、本原郷400戸 家野郷100戸あまり、中之郷100戸というように、元来の仏教徒と裕福ではあるが信仰心のうすかったキリシタン30戸だけを除いて、村民のほとんど全部が名を連ねたのです。これで、ついに浦上村の人々がキリシタンであることが、明るみに出たのです。そこで長崎奉行所では、たくさんの間者を浦上に潜入させ名簿を作り、主だった指導者たちのことや4ヶ所の秘密聖堂の坪数、間取りまで詳しく調べさせていました。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月06日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題


翌6日、平の宿の久蔵が死んだときには、聖徳寺にも知らせずに自葬してしまいました。それを知った聖徳寺が、庄屋に訴え出て問題になってしまいます。その問題になっている真っ最中の4月14日、平の三八の母たかが死にました。今度は庄屋が気を利かせて坊さんを連れてきましたが、家の者が承知しないで、お経を上げるのを断り、自葬しました。庄屋は「今の坊さんが嫌いなら、お坊さんを代えてやる」と言いましたが「どなたであろうと坊さんは要らないのです。お寺とは縁を切りたいのです」と答えました。これは大変なことでした。なぜなら死人が出た時、坊さんを呼んでお経を上げるというのは、祖法(徳川家康、秀忠、家光三代の間に決まった背くことの出来ない大事なおきて)だったのに、それを「嫌です」と言ったのですから
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月05日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

自葬問題
当時は、死人があると必ず檀那寺(だんなでら)の坊さんを招いて読経を頼み、坊さんの立会いのもとで納棺することになっていました。しかし神父から指導を受けるようになると、このような表面仏教という態度を精算しなければいけなくなったのです。1867年4月5日、本原郷の茂吉が死んだとき、これまで通り聖徳寺の坊さんを呼んできましたが、使いの者が途中で、わざとつまらぬことを言って坊さんを怒らせたので坊さんは帰ってしまいました。これで幸いと、茂吉の家では坊さんなしで自葬してしまったのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月04日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

役人の目を盗んで
プチジャン神父は、ちぢれ髪やひげをそり落とし、シュロの毛を黒く染めて作ったかつらをかぶります。そして日本の農民の着物を着て、わらじをはいて角帯を締め 手ぬぐいを法被りしてほおかぶりして日本人に化けるのです。そうやって、夜中に山の中の小道を案内されたり、小舟に乗せられたりして、村や島々を回りました。一方では、大浦天主堂の屋根裏部屋に、村々の代表や青年たちを集めて、いろいろと教えました。そして伝道士として村へ帰しました。こうして彼らの信仰は、日ごとに強められ、燃やされていったのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年11月03日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

役人の目を盗んで
それでも信者たちは、役人の目を盗んでは、夜となく昼となく、天主堂に入り込んでオラショを唱え、神父たちと話をするのでした。それが役人の目にあまりひどく映ると、新しい迫害が起こるかもしれません。そこでプチジャン神父は信者たちに、天主堂に来るのを遠慮するように言い、自分の方から出て行って信者たちの代表と会うことにしました。また信者の隠れている村々や島々ヘも出かけることにしたのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月31日

三十六 キリシタンの復活3−自葬問題 

7代250年間待ち続けていた神父が、ついにやって来たのです。イザベリナゆりたちがフランス寺で会った 異人がその神父がであるということは、その日のうちに浦上中に知れわたり、浦上の全村民が知るところとなりました。すると、その翌日から、浦上の信者たちは続々と、早朝から天主堂へ来るようになりました。しかし、日本はまだ、厳重な禁教下にあったので、役人たちの警戒もまた、教に厳しくなりました。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月30日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

彼らが、さらに神父に質問しようとすると、ほかの日本人が、天主堂に入ってきました。その途端、神父の周りにいた彼らは、たちまちぱっと八方に散り散りになりましたが、すぐまた帰って来て「今の人たちも村のもので私たちと同じ心でございます。ご心配いりません」と申しました。こうして、浦上のキリシタンが、発見されたのです。そして、それに引き続いて、長崎県だけでも数万人ものキリシタンたちが潜伏していることが、明らかになりました。1614年1月の大禁教令から251年にわたる、激しい迫害と殉教の期間を潜伏し続けたキリシタンは、ついに復活したのです。これは他国に類を見ない出来事として、世界宗教史上でも注目されています。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月29日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

確かに彼らは、イエス・キリストを信じて、神父の来るのを250年間待ち続けていたのです。彼らの中の1人が、さらに申しました。「御主(ゼズス)さまは・・・33歳の時、私たちの魂の救い十字架にかかって、お果てになりました。ただ今、私たちは『悲しみ節』にいます。あなたさまも『悲しみ節』を守りますか」「そうです。私たちも守ります。今日は『悲しみ節』の17日目です」神父は、「悲しみ節」という言葉をもって「四旬節」(復活祭前の40日)を言いたいのだと悟ったのです。悲しみ節の期間、迫害下の潜伏の中でキリシタンたちは、断食と祈りを守り続けてきたのです。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月28日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見
この言葉を耳にした時のプチジャン神父の驚きと喜びは、今の私たちには、到底察し得ないでしょう。この時、250年にわたって地下に潜伏していた日本のキリシタンたちが、再び復活したのです。驚きながら立ち上がろうとする神父に、その婦人は畳みかけるように聞きました。「サンタ・マリアのご像はどこ」神父が聖母像の前に案内すると、みんなが集まってきて「本当にサンタ・マリアさまだよ。御子ゼズスさまを抱いていらっしゃる」と言うのでした。プロテスタントの牧師である私は、彼らがマリア像を探していたことに、つまづきを覚えていました。ところが先日、ある神父の方が、こう言われるのを聞きました。「みな、『サンタ・マリアのご像はどこ』という言葉ばかり強調する。でも大切なことは、彼らはこのご像の前に来て、御子ゼズスさまを探していたことです。彼らはイエスさまを探していたのです。そのことを忘れてはならない」

posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月27日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見
プチジャン神父が、祭壇の前でひざまずいて祈っていると、天主堂の中にも窓の外にも、役人らしい人影がいないのを確かめてから、彼らの中の3人の婦人が、プチジャン神父に近づいてきました。そして、その中の一人のイザベリナゆりが、自分の胸に手を当てて、神父の耳元にささやいたのです。「ワレラノムネ アナタノムネトオナジ (ここにおります私たちは皆、あなた様と同じ心でございます。)」神父は驚いて聞き返しました。「本当ですか。どこのお方です。あなたがたは」「私たちはみな、浦上の者でございます。浦上ではほとんど皆、私たちと同じ心を持っております」
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年10月26日

三十五  キリシタンの復活2−浦上信徒発見

浦上信徒発見
1865年3月17日、金曜日の昼下がり、フランス寺の前に十数名の男女の農民がやって来ました。フランス寺の扉は鍵が掛けられてしまっていました。彼らには、フランス式の掛け金の開け方が分からないのでがちゃがちゃとさせていると、プチジャン神父が急いでやって来て開けてくれたのです。神父が聖所の方に進んで行くと、この十数名の参観人の一行は物珍し気に、きょろきょろしながら後ろからついて堂内に入って行きました。
posted by 日本教会史 at 07:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする