2019年12月09日

四十  浦上四番崩れ4−一村総流罪

1月5日の朝、振遠隊という長崎守備の兵士たちが浦上に出張して、男子たる戸主700人を集め、大雪の中、終日役所の庭に立たせた末、夕方になってから長崎港(大波止)に集まっていた12隻の汽船に彼らを乗せました。翌6日には先に萩、津和野、福山に流された114人の家族を召喚して、彼らも夕方、その汽船に乗せました。また700人の残りの家族に対しても検挙が始まり、男も女も、老人も子どもも、みんな勇んで家を出ました。あるものは汽船で、ある者は和船で、ある人は長崎港の大波止から、他の人は時津(時津)からというふうにして、いろいろな船で20ヶ所に流されたのです。
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四十  浦上四番崩れ4−一村総流罪

そして1870年1月1日、突然、残された戸主700人に、明朝六時(午前6時)までに立山役所に集まれと出頭命令が出ました。あまりにも突然だったので出かけている者もあり、5日に改めてほしいと信者が申し出、役所もそれを許しました。その中に長崎にいる各国領事をはじめ、たまたま長崎に来ていたイギリス公使パークスたちが県知事に掛け合って、なんとかやめさせようとしましたが、知事は「東京政府から出た命令なので何ともしがたい」と突っぱねたのです。
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2019年12月07日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

しかし、それはあまりにひどすぎると、参与小松帯刀が三条実美に意見を申し出たので、死刑にしな いで全員流配することに決まりました。こうして神道国家主義をとった明治新政府は、キリストへの信仰を捨てない浦上のキリシタンたちを「一村総流罪(いっそんそうるざい)」にすることに決めました。この結果、浦上の信者3394人が金沢や名古屋、それに萩、津和野、鹿児島などの 西日本の諸藩に流されるという大変な処分が、行われることになったのです。
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2019年12月06日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

浦上一村総流罪
5月17日、大阪の本願寺で処分に関する御前会議が開かれ、三条実美、木戸孝允、伊達宗城、井上馨に、長崎から呼び出された大隈重信が加わりました。御前会議では沢の処分案や重臣の意見も参考にされましたが、木戸の意見が用いられ、中心人物を長崎で死刑にし、残りの三千余人を名古屋以西の十万石以上の諸藩に流配、大名に生殺与奪の権を与え、7年間は一口半の扶助米を
支給し、キリシタンの中心浦上を一掃することに定まりました。
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2019年12月05日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

「まだキリシタンを信仰しているというが相違ないか」「相違ございません」と仙右衛門が答えます。「早速やめろ」「キリシタンをやめたいならとっくの昔にやめています。これからも呼び出されれば出て参りますが、何度参りましても同じでございます」「皆のもの、その通りか」「さようで、さようで」と異口同音に答えました。信者たちの決心の堅さを見て、沢宣嘉は「中心人物は斬首(ざんしゅ)、その他の者は流罪にする」という浦上信者処分案を井上馨に待たせて京都にやり、政府の決済を求めました。
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2019年12月04日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

一方、長崎では沢宣嘉は、浦上キリシタンの指導者26人を総督府に呼び出して、キリシタンを捨てよと、厳しく命じ、詰め寄りました。しかし改心戻しをした時、彼らは殉教を覚悟していましたので「死刑にされてもかまいません」と言って信仰を改めようとはしません。そこで沢宣嘉は4月29日に180人の戸主を呼び出し、総督府の庭の小石の上に座らせて12人の役人を従わせて出てきました。
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2019年12月02日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

キリスト教邪教観
五榜の掲示の第三札には、次のように書かれていました。
一、切支丹邪宗門の儀(きりしたんじゃしゅうもんのぎ)は固くご制禁たり。若し(もし)不審なる者の有れば、その筋の役所に申出可、ご褒美(ごほうび)下さる可事。慶応4年3月                           太政官  これを見た欧米の外交官から「我々文明人の信じているキリスト教を邪宗というのは我々に対する侮辱である」と政府へ抗議してこられ、政府は困って
一、切支丹邪宗門の儀は、これまでご制禁の通り固く相守るべく候事。
一、邪宗門の儀は、固く禁止の事。
と書き改めました。      
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2019年12月01日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

キリスト教邪教観
年は改まり1868年、明治新政府は、沢宣嘉を、九州鎮撫総督兼外国事務総督に任命します。彼は井上聞多(馨)を連れて3月7日に長崎に着任します。 新政府は4月7日に五榜の掲示を掲げ、神道国教主義の政治方針を明らかにしました。つまり、神道により民心を一つにまとめようとしたのです。それは、当然キリシタン弾圧を決定づけました。
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2019年11月30日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

庄屋は止むなく、その夜のうちに、彼らの名簿を添えて長崎代官に届けました。数日後、彼らは彼らは奉行所に呼び出されました。殉教覚悟で、彼らは出頭しました。ところが白洲へ出てみると、案に相違して、「いずれ厳しく吟味いたすので、その時呼び出すまで自分の家におれ」と言い渡されて奉行所から追い出されました。というのは幕府が倒れて、天皇政治が始まろうとしており、奉行所はそれどころではなかったのです。翌11月9日に、15代将軍慶喜は大政奉還し、浦上事件を解決できないまま、幕府は倒れました。
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2019年11月28日

三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

平生は強そうに見え、教理もよく知っている伝道士たちが、みんな転んでしまったのに、無学で弱弱しく見えた仙右衛門が、一人信仰を守り通したので、転んだ連中は、恥ずかしくてたまらなくなりました。それで仙右衛門にできたのなら、自分にもできないはずはないと、女性5人を含む38名の者が庄屋の門を開いて「回心戻し」を申し出たのです。回心戻しとは、一度転んで改宗しキリストを捨てたことを取り消して、元のキリストへの信仰に戻ることです。
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2019年11月26日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

彼が一人だけ転ばずに信仰を守り通せたのは、特別に主にすがり、自分の弱さを覚えて祈っていたからでした。いやむしろ、彼は弱かったからこそ、断食までして、主イエスさまと聖霊さまに、真剣に助けを求めたのです。そしてその祈りは、主に聞き届けられ、彼はどんなに目の前で、ひどい責め苦を見せられ、他の者たちが目の前で次々に転んでいっても転ばなかったのです。主は、ほかの誰でもなく、字も読めず無学であっても、祈り、主にすがるものに助けを与え、日本の信仰の自由を勝ち取らせてくださったのです。
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三十九  浦上四番崩れ3−回心戻し

転んで先に帰った人たちは、家族から「信仰を捨てたものはきっとテングがついたに違いない。家にいれると一緒にテングもついてきて、みんな転んでしまう。だから家にいれるなもしあなたが家にいるなら私が出る」と言われ、家にも入れてもらえませんでした。かといって外にもおられず、天主を捨てたという思いで身一つ置くところなく、昼も夜も山の中で、3日3晩泣いていました。そこへ仙右衛門が帰ってき、まるで凱旋将軍のように村人が迎えていました。
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2019年11月25日

三十八  浦上四番崩れ2−浦上信徒発見

祈りによって
その時 村の人が仙右衛門に、どうしてあんなひどい拷問を しのぐ ことができたのですかと聞きました。「どんな強い人間でも、あんな目に遭わせられたら、人間の力だけでは、とてもしのぐことができません私が転んだら天主様、」また日本のたくさんの殉教者に対して申し訳ないと思い、断食の祈りをささげ聖霊さまのお助けを祈っておりました。聖霊さまのお力で、しのげたのでございましょう」と仙右衛門はこたえました。
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2019年11月22日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

祈りによって
ただひとり高木仙右衛門は、転びませんでした。この人は農民でした。字は読めず、特別な学問を受けたわけでもなく、見た目には弱そうな人で、仲間さえ、どこからそんな勇気が出てくるのか信じられないくらいでした。彼は、ただ単純に、教えられた事を信じて守っていただけでした。毎金曜日にはキリストの御受難を思って 断食し、祈りをしている人でした。
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2019年11月19日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

過酷な拷問
それをみて、今ひどい目に遭った6人もすっかり気を落としてしまい、つめ印を押してしまいました。役人は「あれを見たか、あのような体になってから改心するよりも、今体の痛まぬうちに回心したらどうだ」と、これから拷問を受けようとしている5人の者や、まだ転び証文につめ印を押していない者たちに言いました。それで、これから拷問を受けようとしていた5人もすっかり気を落としてしまい、残っていた人たちも、みんな爪印を押してしまったのです。ただひとり、高木仙右衛門だけを残して。
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2019年11月18日

三十八  浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

過酷な拷問
水をかけると縄は、短く縮み、肉に入り、皮膚は紫色に変わります。そして、また気絶してしまいます。こうして6人は門口に引き出され、捨て物のように転がされました。続いて次の5人も同じ目に遭わせようとしました。この拷問の有様を見せられていた人たち何人かは、「これから毎日こんなめに遭わせられるなら、とても信仰を守り通すことはできない」と、転び証文の自分の名前の下に、つめ印を押してしまったのです。
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2019年11月17日

浦上四番崩れ2−高木仙右衛門

過酷な拷問
駿河(するが)問いという責め苦(「ドドイ」)とも呼ばれる)を受けるため、6人が選ばれました。これは両足を背中に反らせて、両足手首、それに首、胸にも縄をかけて、それを背中の1ヶ所にくくり寄せ、その縄を梁に巻き上げ、体を弓のように反らせて、つるすのです。コマのように勢いをつけて、振り回し、次によりを戻して逆に回転させます。そして下に立った役人が棒とむちで散々に打ちたたきます。するとほとんど気絶してしまいます。それから地面に引き下ろして水をかけ、正気に戻して繰り返すのです。
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2019年11月16日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛  

また、彼らが捕らえられた後にも、浦上では、死人が出た時坊さんを呼ばない人たちが、次々に桜町牢に入れられていました。10月5日、68人は再び小島牢から桜町牢に移されましたがその時には彼らは83名となり2坪ちょっとの4畳半の牢に38人が詰め込まれる有様でした。それでも彼らは、責められても、苦しめられても、信仰を、この時までは守っていたのです。けれども桜町牢での拷問は凄惨(せいさん)を極め、その結果、ついに高木仙右エ門ただ一人を残して、82人が転んでしまうのです。
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2019年11月15日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

長崎奉行は、浦上農民たちが囚人たちを奪い返しに来るかもしれないと思い、2日後には小島に新牢を造り、そこに移しました。そこから仙右衛門、与五郎、寅五郎、又市などは、取り調べのために、たびたび西役所に引き出されました。一方、キリシタンであるという信仰の問題だけで捕縛投獄されたことに在留異国人は衝撃を覚え、各国の領事は奉行に抗議しました。さらに問題は幕府と各国外交団にうつされ、毎日のように議論されました。しかしキリシタン邪教観は強く、なかなか解決しませんでした。そうしている間にも「入牢者には拷問を加えない」という外交団との約束は破られ、長崎では捕らえられた68人に説得やひどい拷問が加えられていました。
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2019年11月14日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

捕縛
1867年7月15日の早朝3時頃、大雨をついて捕手たちは浦上の地に踏み込み、68人が捕らえられました。これが「浦上四番崩れ」の始まりです。彼らは桜町牢(ろう)に入れられました。この桜町牢は、もともと教会のあったところですが、1614年の迫害の時に壊され、その後に牢獄が造られて迫害時代に多くの神父や信者たちが、苦しみをしのぎ、殉教へ旅立っていったところです。

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2019年11月13日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

代わった明治新政府は、神道を中心に天皇政治を目指したため、キリシタンに対しては迫害の手を緩めるどころか、ますます激しくなりました。そのため、キリシタンへの迫害と弾圧は、外交上の問題となりました。明治6年、すなわち1873年になって、やっとこの問題は解決し、キリストを信じることが認められたのです。しかしそのためには「浦上四番崩れ」といわれるている、明治政府によるキリシタン弾圧の中での激しい迫害と殉教を、通過しなければならなかったのです。
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2019年11月12日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

「ワタシノムネ アナタノムネトオナジ」この言葉をもって復活したキリシタンたちは、うれしくてうれしくてたまりません。それまで隠れ続け、待ち続けたきた キリシタンたちは、毎日のように天主堂に通い、熱心に祈り、御言葉を学びました。けれどもまだ、日本はキリスト教を禁止していました。その結果、浦上のキリシタンたちは、ついに捕らえられ、牢に入れられてしまいます。まず最初に、指導者の68人が捕まりました。そして、この問題を解決できぬまま、江戸幕府は倒れてしまうのです。
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2019年11月11日

三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

捕縛
1867年7月15日の早朝3時頃、大雨をついて捕手たちは浦上の地に踏み込み、68人が捕らえられました。これが「浦上四番崩れ」の始まりです。彼らは桜町牢(ろう)に入れられました。この桜町牢は、もともと教会のあったところですが、1614年の迫害の時に壊され、

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三十七  浦上四番崩れ1−捕縛

これから「浦上四番崩れ」について書いていきたいと思いますが、その前に今までに書いてきたことを、簡単にまとめておきます。激しい迫害の中で潜伏した キリシタンたちは、バスチャンの残した予告預言を信じて7代250年の間、罪に告解を聞いてくれる神父が来るのを待ち続けていました。そして、預言通りに、7代250年たった時に、神父がついにやって来たのです。
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2019年11月10日

三十六  キリシタンの復活3−自葬問題

その結果、この問題は江戸幕府と上記各国等による外交団との間に移され、外交団は毎日のように、この問題をもって幕府に迫りました。しかし徳川250年の間に培われた キリシタン邪教観は根深く、なかなか解決はしなかったのです。そして、キリシタン事件を解決できないまま、幕府は瓦解してしまうのです。
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